おはよう、黒たん。

朝、アパートを出ると何故かそこにはファイがいた。
今日は9月も終わりだというのにやけに暑い。真上にいる太陽はどうだと言わんばかりにその存在を誇張している。せっかく引っ張り出してきた夏服も全く役に立たなかった。

「えへー。今日はオレが迎えに来ちゃった」

と、へにゃりと笑うファイはどことなく弱弱しい。それに気付き少年の眉は寄ったが、何か言う前にファイが歩き出したので慌てて後を追った。
いつもは一人で通る道を、今日は二人で歩いていく。ファイのマンションまでの通い慣れた道に彼がいるのが珍しくて、目の前でふわふわと揺れる金髪を少年はぼんやりと見つめた。

「今日は暑いね〜」
「4限、体育なんだけどサボッちゃおうかなぁ」
「一緒にサボッてくれる?なーんて」

くすくすくすと、そう冗談を溢すファイは、その内容に反し、一度もこちらを見ようとはしない。常と同じくゆっくりと歩き、しかしその声は妙に明るく繕っていた。
どうしたというのだろう、ファイがアパートに来るなんて初めてだった。

―――

そこまで考えて少年は足を止める。どうした、だなんて考えるまでもない。ファイ自らここへ来た理由など、一つしか思い当たらなかった。
昨日のあの出来事。ファイに直接伝えた訳ではないが、既に知ってしまったのかもしれない。急に抱き締めた自分の行動の真意を、知ってしまったのかもしれない。

「……ね」

ざわりと、一つ風が吹く。目の前の金から発せられた言葉は、その風に攫われてよく聞き取れなかった。
何だと、少年が顔を上げたその時。

「…ごめん、ね」

振り返り、ぎゅ、と鞄を握り締め、俯いたままファイは言う。
今にも消え入ってしまいそうに細く、微かに震えている声とは裏腹に、長めの前髪からかろうじて覗ける口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。

「もう、今日で終わりにするから」
「一緒に帰ったり、ゴハン食べたり…そーいうコト」
「今日で全部、終わり」

ゆっくりと顔を上げる。

「ごめんね」

そして、初めて会った時のようにファイは笑う。驚く程に綺麗な、人形かと見間違えてしまうかのような完璧な笑顔で。
金色に光る髪。陶器のように白い肌。空よりも蒼い瞳。そしてさくら色の唇は綺麗に弧を描いて。
ああでもそこには確かに。

「ごめんなさい――――――それでもオレは、君のことが好きなんだ」

一粒の涙が、二人の間に音も無く落ちていく。そしてファイは、身を翻し去っていった。
たった一人、少年だけを残して。


突然の、告白だった。



# ウタカタの桜 第9話 #



ファイ・D・フローライトが倒れた。
その噂は、瞬く間に校内に広まった。

時は昼休みをあと数分残した頃。珍しく同じクラスの女子グループと昼食を取っていたファイが、突如体の不調を訴え、そのまま倒れたという。
それは、普段そういう事情に疎い少年にもすぐに伝えられた。何をするわけでもない、たった一人の昼休みを終え教室へ戻ってきた少年に、クラスメートが血相を変えて教えてくれたのだ。
そして少年は、そのまま教室へ入る事は無かった。


# # #


白いカーテンからうっすらと外の光が漏れてくる。セピア色をした室内は不気味な程静かだ。グラウンドで元気に体育の授業を受ける生徒達の声は遥か遠くに聞こえ、それがここが外界とは完全に切り離された、特殊な場所だという事を顕著に表していた。
少年はファイを見つめる。以前、風呂場で倒れた時と同じように、その頬は紙のように白かった。色褪せた唇から漏れ聞こえてくる微かな吐息さえなければ、死人かと思ってしまう程に。
校医は今はいない。ただの貧血だからだと、少年が授業をサボってきた事を咎めるでもなく遅めの昼食を取りに行ってしまった。あとはヨロシクね、という言葉を残して。
とりあえず、症状は軽いものだと分り安堵する。近くの椅子を引き寄せ、ファイが寝ているベッドの傍らに座った。
心が冷える、とはこういう事なのだろうか。両親が死んだ時と同じ感情が、一瞬にして体を貫いた。ガラガラと音を立てて、足元から何かが崩れ落ちていく感覚。
失う―――という恐怖が、一瞬にして。

「ん…」

ふいに、ファイが声を上げる。
覚醒を知らせるそれを証明するかのように、次に一つ頭を振り、そしてふるりと瞼を震わした。

―――…」

カーテンの隙間から差し込んでくる光に照らされて、キラキラと輝く睫毛の間から綺麗な空色が覗く。瞑っていたためかそこは薄い粘膜で覆われ、それを振り払うかのようにファイは何度か瞬きを繰り返した。
今自分がどんな状態なのか、どこにいるのかすら分っていないのだろう、セピア色に淡く光る天井やカーテンをぐるりと見渡し、そしてようやく隣にいる人物に気が付いたようだった。途端、その瞳が見開かれる。

「よぉ」
「っ、く、ろた…!」

少年の姿を認め、がばっと勢いよく飛び起きたファイはそのままベッドから降りようとした。逃げようとしたのだ。
しかし不調を訴える体は言う事を聞かなかったのだろう、くらりと眩暈を起こし、再びベッドへとその身を落とす。

「バカ、てめぇぶっ倒れたんだぞ。急に動くな」
「……な、んで」

何でここにいるのと、そう言いたかったのだろう。けれど少年はその問いを無視し、ファイの体を支え、ゆっくりとベッドへ横たえた。自然と近くなったファイを見つめると、その端正な眉を困惑に歪め、どうしてよいのか分らないと訴えるような、今にも泣き出しそうな顔をしていた。それに少年は笑う。
心に、決めた事があった。昨日ファイと別れてから、そして今、ファイが目覚めるまでに決めた事が、一つ。

「…はな、離して」

布団の中で手を握ると、か細い声でそう抵抗された。みるみると顔が赤く染まり、それは耳の先まで浸透していく。
少年はその変化を面白そうに見つめ、そして握る力を更に強めた。

「………はな、して…」
「嫌だ」
「ぅ〜…」

離して欲しいなら自分から離せばよいのだ。なのにそれをしないのは、しない理由は。

「…なぁ、」

聞きたい事は山程あった。言いたい事も。
今朝、自分に言った事は何なのか。会うのをやめると言ったファイの本当の気持ちは何なのか。そして、その後に告げた言葉の意味は、何なのか。
急く気持ちを叱咤して、少年は口を開く。

「昨日の、事…なんだけど」

びくり。手の中のそれが一つ跳ねた。
ファイは相変わらずこちらを見ようとしない。けれど、そのわざとらしい動作が却って少年の心に拍車をかける。少年は話した。
昨日の事。急に呼び出された職員室で言われたあの言葉。その後の自分の行動。思った事。感じた事。そしてその発端となった、あの公園の男の事。
男の話になった途端、ファイは震え始めた。じんわりと手に汗が滲み、それは決して心地よくは無かったけれど、それでも少年はその手を離さずに続ける。
自分の思いを、伝えるために。

「俺は、後悔はしてねぇ」
「あの時お前を守れて良かったと思ってるし、アイツを一発ぶん殴ってやりたかった」
「だから、これで良かったんだ。お前のせいじゃない」

お前のせいじゃないと、もう一度言い、少年は息を吐く。
あの時、真っ先に浮かんだのはファイの顔だった。そして次に浮かんだのは、自分のせいだと嘆く姿で。自分を守ったために大会出場停止になったと悔やみ、ごめんねごめんねと泣きながら謝るその姿。それが容易に想像出来た。
その時、少年の胸に去来したのはどこまでも深い絶望だった。そして、怒り。
ふざけるなと、そう言うつもりだった。もし、ファイが自分の予想通りの反応を示したら。なのに。
全く、言っている事がめちゃくちゃだ。もう会わないと告げたその口で、次の瞬間には自分の事を好きだという。意味不明だ。
未だに、ファイの事は分からない。やはり日本人離れした外見を持つ人間は、行動も日本人離れしているのだろうか。

―――んで、こうなっちゃうのかな…」

少年が話を終え沈黙が降りる中、ふと聞こえてきた声は濡れていた。
静かに伝い落ちる雫。それは綺麗に弧を描きながら、ぱたぱたと音を立てて白いシーツを染めていく。

「なんで君はそうなの…。なんで、そんなに……」

喉がひゅうとなる。嗚咽を耐えるかのようにファイは少しだけ起き上がり、胸を押さえた。
痛々しい程に上下する、その細い肩を支えようと少年が手を伸ばす。するとそれを阻むかのように、ファイは少年の手を自分の手で掴み引き寄せた。
濡れそぼった蒼い瞳で少年の紅い瞳を射抜く。突然の行動に驚いている少年の前で、ファイは、

「あの写真を送ったのがオレの父親だとしたら―――それでも君はオレを許せる?」

先程まで弱弱しく泣いていたとは思えない程に、強く苛烈に、そう言った。


# # #


歌が聞こえた。
遠い遠い記憶。幼かった自分にはその歌の意味はよく分からない。けれど、それはとても幸福なもののように思えた。
だっていつもあの人が、幸せそうな顔をして歌っていたから。

「ねぇ、とおいくにでその子はどうなったの?」

一度だけ聞いた事がある。歌に出てくる、自分と同い年であろう子ども。大人に手を引かれ異国へと旅立っていった、真っ赤な靴を履いている子ども。
その歌にはその子がどうなったかは記されていなかった。気になったのだ。遠い国で一人、寂しい思いはしていないのかと。その子は幸せになったのかと。

「ねぇ、とおいくにでその子はどうなったの?」

だから聞いたのだ。いつも幸せそうに歌っているあの人に。


―――そこからだ。全てが、おかしくなったのは。


# # #


その笑みは、今まで見た笑みとは何処か違った。まるで初めから許される事など望んでいないような、許す事自体を許さないとでもいうような、笑み。
少年は言葉が出なかった。今、たった今ファイに言われた言葉。それが頭の中で繰り返される。
キィンと耳鳴りがし、ともすればそのまま落ちてしまいそうになる。二人の間に今、確かに出来た、この闇に。

「写真を撮ったのは、父に雇われたプロの探偵。あの人……時々そうやってオレを監視してるんだ」

少年と男の現場を押さえられたのは偶然では無かった。共に登下校をし、部屋にまで上がっている少年を、ファイの父親は見逃しはしなかったのだ。
次々と思い出される出来事。あの時も、あの時も、いつも柔和な笑みを浮かべているファイが、唯一その表情を変える瞬間があった。それは全て、父親絡みではなかったか?

「君に、近付くんじゃなかった…。今回だって、オレがもっと気をつけていれば……」

出会わなければよかった。
知らなければよかった。
その温もりに、優しさに、気付かなければよかった。
好きになんて―――ならなければよかった。

「ごめんなさい…君を、巻き込んでごめんなさい。君を傷付けてごめんなさい。もう近付かないから。二度と、こんな事ないようにする、から……」

そう言って再び涙を流したファイを見て、少年は、自分の中で何かが弾け飛んだのを遠い意識で知覚した。
体の奥底から急激に這い上がってくる衝動。それに抗う事なく、少年はファイの肩を掴みそのままシーツへと押し付けた。痛みに顔を顰めるファイなど気にする余裕は無い。ここが何処だか気になどしない。勢いよく乗り上げるとベッドが悲鳴を上げたが、最早少年の耳には届いてはいなかった。

―――っ、くろ、」
「黙れよ」
「っ、」
「黙れっつってんだ!」

ぐ、と掴む手に力を込める。

「てめぇ……さっき俺が言った事、聞いてなかったのかよ」

熱い。体が熱い。それは怒り故なのか、それとも、今組み敷いているファイの弛めたシャツから覗く、白く細い喉元がやけに目に付くからだろうか。
しかし、そこで少年は気付いてしまった。
今日は9月の終わりにしては暑い。残暑が色濃く残るそんな日で、ほとんどの生徒が半袖のシャツに袖を通している中、ファイだけが長袖を着ていた。カフスのボタンまできっちりと留めて。
まさか、と思いたかった。しかしそこで目を逸らしてしまえる程、少年には分からない振りは出来なかった。
既に気付いているのだ。この暑い中、まるで隠すかのように長袖を着る、その理由を。

―――昨日、どこに行ってた」

そんな事を聞いたって今更どうにもならない。こんなのは質問ではない。確認だ。
現にファイは、少年の言葉に怯えた様に目を見開いた。

「……………………父親の、ところか」

その反応に少年は静かに呟いた。
ゆっくりと体を起こし、ファイを掴んでいた手を離す。その動作を、恐怖に濡れた瞳でファイは追っていた。
そして、次の瞬間。

―――――――ドンッ!!

――――――ッッ…!!」

少年の、声無き声が部屋中に響いた。
ファイは、目の前の光景を信じられないとでもいうように見つめた。常に自信に満ち溢れている眉は脆弱に歪み、どんな逆行にも屈しない燃え盛る瞳は、今にも消えてしまいそうに儚い。そして顔の横に突き付けられた、自分の手をすっぽりと覆ってしまえる程に逞しい拳は、ほんの少しだけ震えていた。
少年は、泣いていた。

「…く、ろた……」

涙は流れていない。けれど痛々しい程に伝わってくる、全身で訴えかけてくる。
年下の少年が初めて見せるその様子に、ファイは思わず手を伸ばしていた。あるはずのない涙を拭おうと、少年の頬にそっと寄せる。するとその手を奪い取られた。奪い取った少年は、それを強く握り締めながら思う。
ああそうだ。決めたじゃないか。昨日、誓ったじゃないか。離さないと。離したくないと。この先どんな事があろうと、二度とこの手を離すものかと。
そして、ファイを、

「守ってやる…」
「…え?」
「俺が守ってやる―――絶対だ」

目の前の愛おしい人を不幸にする、この世の全てのものから―――

そうしてファイを抱き締める。
悔しかった。あの公園に居合わせた時よりも遥かに巨大な負の感情が、少年を取り巻いている。『父親』という存在。赤の他人である自分には手の届かない存在。けれどそんな事はどうでもよかった。
何だってしてやると思った。ファイを守るためならば何でも。

―――ダ、ダメ…黒たん。何言ってるの。オレの話聞いてた?」
「そっちこそ、俺の言う事聞いてたのかよ」
「な、何を、」
「『お前のせいじゃない。俺が守ってやる』……何度でも言うぞコノヤロウ」
―――っ!…ま、待って!ダメ!」
「何が」
「ダメ!……また、今回みたいな事があったら…」
「んな事、俺が気をつければいいだけだろ」
「そんな簡単にっ、」
「あーもういい黙れ」

そう言ってファイの唇を塞いだ。その時、そういえばキスは初めてだなと気付いたが、唇越しに感じる感触に、そんな考えは一瞬にして吹き飛んでしまった。
自分のものよりも少しだけ小さいそこは、驚く程に柔らかく、そして暖かい。少年は子どものような熱心さでそこへ吸い付いた。ぷくりと膨らんだ下唇も、ツンと尖がった上唇も、それらがさくら色から真っ赤に色付くまでに何度も何度も。ファイが、とうとう音を上げるまで。
合間に少年は囁きかける。守ってやると。
それは誓いのようでいて、そして懺悔にも似ていた。まるで自分に言い聞かせるかのように、少年は幾度となく呟く。

守ってやる。守ってやる。守ってやる。絶対に―――

ふと、縋るように回された腕は、赦しの証として受け取ってよいのだろうか。
深い闇の中、手探りで始まった拙い恋に夢中な少年は、しかしその時、その裏に隠された真実に気付く事は出来なかった。





そしてその日を境に、ファイは、少年の前から姿を消した。