ファイが姿を消してから、数日が経った。

少年は焦っていた。ファイに会えない。連絡がつかない。学校にさえ来ていないのだ。
何度もファイのマンションに行ったが、元々オートロックな上、インターホンを押しても何の反応も無かった。
守ってやると、そう約束したのがつい昨日の事のように思える。初めて味わった唇。弱弱しく回された腕。その何もかも全てが鮮明に思い出されるのに、なのに何故、今、ここにファイはいないのだろう。
電源だけが入っている、ただの金属とプラスチックの塊になったそれを見つめる。 番号を交換したのはいつだったか。初めは単に緊急連絡用だった。また、あのような事件が起こらないように、出かける時や何かあった時にすぐに少年に知らせるようにと、ただそれだけの理由だったのだ。
けれど、それはいつしか建前になっていった。毎日毎日、ファイは少年からすればどうでもいいような内容のメールを送ってきた。時には電話も。
今見ているテレビが面白いだの、明日のお弁当のおかずは何がよいだの(これはこれで重要だが)、ほんの些細な事でも何でも送ってくるファイに、先に根負けしたのは少年だった。
しかし他愛ないやり取りをしていたはずのそれは、今は鳴らない。少年を嘲笑うかのように、無情にも沈黙を守り続けている。

嫌な予感はしていたのだ。あの日から、いや、もっと前から。

あの日。とりあえず自宅のアパートに住まわせようと、それを受け入れたのか分からないぼんやりとした表情のファイを連れて、マンションへ戻った。荷物を取りにエントランスへと入っていったファイを見届け、少年もアパートへ戻る。まずは、管理人である従姉妹達の了承を得なければならなかったからだ。
ファイには、迎えに行くから荷物を纏めたらすぐに連絡するよう言ってある。だからその途中で、何かが起こるなんて考えられなかった。しかし結局、ファイがアパートへ来る事はなかったのだ。
ファイの身に何かが起こっているのは確実だ。しかし、この繋がらない携帯とマンションと学校でしかファイとの接点がない少年は、その3つ全てが役に立たない今、どうにも出来ないでいた。八方塞とはこの事だ。苛々する、苛々する。

RRRRRRRRRRRRR……

すると突然、今まで黙り込んでいた携帯が鳴り響いた。弾かれたかのように少年はそれを手に取り、ウィンドウを見る。そこには確かに「ファイ」の文字があった。
急いで通話ボタンを押す。すると、聞こえてきたのは、



# ウタカタの桜 第10話 #



それは、今まで聞いた事のない声だった。

――――黒鋼くん、だね?初めまして、ファイの父親です』

抑揚の無い、そしてやけにゆっくりとした、大人の男の声。
突然の予想外な出来事に何も返せないでいる少年に、男は、

『黒鋼くん?』
――――――――――――ぁ、…」

ようやく出た声は掠れていた。それに気付いたのだろう、クスリと、電話越しに笑う声がする。

『挨拶が遅くなってしまって申し訳ないね。もっと早く君と話したかったのだけれど、何分仕事が忙しくて……。君には、ファイが随分とお世話になったようだ。そのお礼といっては何だが、渡したいものがある』
「渡したい、もの……?」
『そう、ファイの相手をしてくれていたささやかな礼だ。是非受け取って欲しい』

誰がそんなもの、と言いかけたが、次の言葉にそれを飲み込んだ。

『ファイも、君に会いたがっている』





パタン。

ドアが閉まる軽やかな音がした。その音の方向へちろりと目をやり、そして戻す。
追いかけようとはしない。既に体は疲弊しきっていたし、それにあの人が何処に行こうが今の自分には何の興味も関係も無かった。
ここに閉じ込められてから何日経ったのだろう。曜日感覚などとうに狂っている。
自分を縛り付けていた手錠類は、先程あの人によって外された。自分にはもう逃げる気力すら残っていないと思ったのか、それとも、少しだけ残っている慈悲の心からなのか。
しかしその安易な考えは、起き上がろうとした瞬間に吹き飛んだ。腹に力を込め、なんとか上半身を起こそうとした、その時。

――――――――は……」

それを認識した途端、思わず乾いた笑みが零れた。
首元に感じるずしりとした重み。金属同士が擦れる耳障りな音。触って確認するまでもなかった。
ふいに、涙が出た。零れないようぎゅ、と強く目を瞑り、そうして再びベッドへ身を落とす。シーツに顔を押し付け、今見たものを頭から追い出そうとした。

「……黒たん……」

気がつけば呼んでいた。側にいるはずのない、誰よりも愛おしいその人の名を。
彼はどうしているのだろう。急に連絡の途絶えた自分を心配しているのだろうか。
守ってやると言ってくれた彼。そう言いながら思い切り抱き締めてくれた彼。優しく激しく口付けてくれた、彼。
今でもその全てが鮮明に思い出される。あの人に何度嬲られようが、その感触だけは消えはしない。身体に、記憶に、深く刻み込んでいる。
ああでも。それでも。

「……黒たん……黒りん……黒るー、……っ、黒みー……」

その名を呼ぶ度に、はち切れるかと思う程に痛む胸は何なのか。叫び出したくなる衝動を抑えきれない、この気持ちは何なのか。
それでも自分は呼び続ける。そうする事で、少しだけ救われる気がして。





男が指定したのは、何と言う事はない、ファイのマンションだった。

「やぁ、思ったより早かったね」

初めて見たファイの父親は、想像していたよりも若かった。長い髪は綺麗に整えられ、一見、女性と見間違えてしまう程端正な顔には柔和な笑みを浮かべている。
その笑みは、ファイのそれととてもよく似ていた。

「……アイツは、どこですか」

はあ、と一つ息を吐き、少年は男を睨む。
単刀直入にそう聞かれ、男は一度大きく目を見開いた。そして次に、さも面白いとばかりに細め、

「焦る必要はないよ。約束通り、ちゃんと会わせるから」

まずはお茶でも飲んで一息吐いたらどうだいと、全力で走ってきたのだろう、汗に濡れ変色した襟元を見、男は言った。
それにすぐさま少年は反応する。

「っ、どこだっつってんだ!!」
「だから、会わせると言っただろう、ちゃんと」

少年の声に被さるように、再度男は告げる。変だと思った。
変だ。何かがおかしい。それは、この男の不自然すぎる程にゆっくりとした口調や動作のせいなのか、それとも、纏う雰囲気が今まで出会ったどの大人よりも異質だからなのか。
ピリピリと首の後ろが痛む。額にはじんわりと汗が浮かび、少年は目の前の訳の分からないものの正体を強く睨んだ。
危険だ、この男は危険だと、どこかで本能が告げている。

――――そんなに、会いたいのかい?」

ふと、男は瞳を細めた。次にしょうがないね、とでもいうように息を吐き眉を下げる。わざとらしく。
そしてちらりと少年を見、

「だったらまず、靴を脱いだらどうかな」

途端、ダン!という音と共に、少年は玄関に上がり込んでいた。一向にファイに会わせる気が無い男になど、構ってはいられなかった。
少年が通り過ぎても、男は止めようとはしない。ただ面白そうに口元にうっすらと笑みを浮かべ、目だけでその背を追いかけた。そして、

「ファイは寝室にいるよ」

そう言うと、少年はぴたりと止まった。
振り返り、燃える様な紅い瞳を大きく開き男を凝視する。それは今、男の言った言葉の真偽を確かめているように見えた。
そんな少年にクスリと笑うと、やはり不自然な程ゆっくりとした動作で、男は自分の子どもがいる部屋の前まで移動する。

「ほらここだよ。ここに、ファイはいる」

その間、少年は何故だか一歩も動けなかった。まるで魔法にでもかかったかのように、ただ男の動きに見入っていた。
ガチャリとドアノブが下ろされる。廊下の明かりが、一本の黄色い線が、室内の床に伸びていく。





話し声がする。

ボソボソとはっきりしない声に、ふと意識が引き戻された。
どうやらあのまま寝ていたらしい。未だ完全に覚醒していない頭を一つ振りながら、ゆっくりと体を起こす。少しだけ休息の取れた身体は、大分楽になっていた。
隣にあの人の姿はない。先程出て行ってから戻ってはいないその証拠に、冷たいシーツの感触が足に当たった。ドアの外の声はあの人だろう、電話で仕事の話でもしているのか。
何にせよ自分には関係のない事だと、ベッド脇に置いてある水差しへと手を伸ばす。その時に、気付いた。

――――――――誰か、いる。

あの人と違う、もう一つの声がはっきりと聞こえた。低く、少しだけ荒っぽいその声は、自分はとてもよく知っている。この数日、全く聞く事の出来なかった、そして何よりも望んでいた、声。嘘。嘘だ。何で。
二つの声は、だんだんとこちらへ近づいて来る。そして、ついにカチャリとドアノブが下ろされた。声は出ない。体は動かない。水差しへと手を伸ばしたまま、それでも視線を逸らせなかった。
そこには、二つの影がこちらを、













―――――――――時が、止まった――――――――










「ファイ、起きていたのか」

男はそう言うと、少年の脇を通り過ぎ、ファイへと近づいた。

「体は大丈夫かい?ちょっと、無理をさせてしまったね」

ごめんね、と男は謝る。そしてファイの頬を一つ撫で、頤に指をかけて囁いた。

「ほら、黒鋼くんが来てくれたよ。――――ファイ?」

男の声は、恍惚そのものだった。楽しそうに、嬉しそうに、まるで歌うように言う男は、ファイの肩をそっと抱き寄せる。優しくその丸みを撫で、ぴくりともしない子どもをあやすかのように。
大きく見開いた蒼い瞳を少年へ向け固まっていた子どもは、その表情は変えないまま、一つ息を吸った。色褪せた小さな唇が、震えながら開かれる。
そして、叫んだ。
暗い、外からの僅かな光しか届かない部屋に、それは轟いた。
自身を切り裂くかのように喉の奥から搾り出したその声を聞き、少年もやっと我に返る。同時に、冷えた空気が口内を撫でていった。

――っ、ぁ、…あ、ぁ、…っ!」

男の腕を振り払い、少年から身を隠すかのようにシーツを被るファイは、布越しにでさえ一目で分かる程に震えていた。涙と嗚咽の混じり合った、誰よりも愛おしい人の叫び声を聞きながら、少年もまた、そこで初めて理解する。
今まで避けてきた、そしてやっと向き合おうとしていた、現実を。

「ファイ、どうしたんだい?せっかく黒鋼くんが来てくれたのに」

しかしそれでも男は変わらない。この状況を何とも思っていないような、又は心底楽しんでいるかのような口ぶりで、どこまでも優しくファイを諭す。

「こっちを向きなさい、ファイ」
「ぁっ、…!」

そして手を伸ばし引き上げたのは、一本の鎖。その先には、白く細いファイの首筋が見えた。
喉を無理矢理押しつぶされ、ファイは苦しそうに喘ぐ。片方の瞳から、ぼろりと涙が一つ零れた。

「あんなに会いたがっていたじゃないか。黒鋼くんも、ファイに会いたがっていたそうだよ?」

その言葉に、ファイは閉じていた目を開く。しかしそれはすぐに諦めの色に変わり、見る見る色を失っていった。
男の真っ黒い髪が一本一本ファイの頬を撫でていくその様は、まるで蜘蛛の糸のようだった。獲物を見つけ、優しく、そして冷酷に微笑む黒い蜘蛛。それはファイのみならず、少年を、この空間さえもじわじわと絡め取っていく。
ふっ、と膝が萎え、少年は思わず後退した。開け放ったドアにぶつかったが、そんな事は最早知覚すらしない。苦しい。息が出来ない。血が、体内の全てが、逆流をし始めた。

何だ?
何だ、これは。
これは一体――――――――――何なんだ?

「ファイ?」

何度呼びかけてもただ泣き崩れるばかりのファイに、男はため息を吐くと、しょうがないね、という言葉と共に、掴んでいた鎖を離した。

「しつけがなっていなくて申し訳ないね。君ともっと話をしたかったのだけれど……この調子じゃ無理そうだ」

男は続ける。

「私の連絡先を教えておこう。しばらくは日本にいるから、いつでも訪ねてくるといい。君なら歓迎するよ」

そう言って差し出された名刺を、少年は受け取らなかった。辛うじて視線は向けたものの、それが名刺だという事さえはっきりと認識出来ないでいた。
そんな少年に男は笑う。ひらりと、それを床へ落とすと、

――じゃあ、私はそろそろ失礼するよ。久しぶりの再会だ。ゆっくりしていってくれたまえ」

何事も無かったかのように、それこそ明日の天気の話でもするように平然と、男はそう言って部屋を出て行った。
残された2人は、男が完全にマンションからいなくなっても話す事も動く事もせず、時計の音とファイのすすり泣く声だけが、薄暗い部屋の中でか細く響いていた。
小さく震えているファイの肩は、その白さ故にぼんやりと光って見える。少年はその肩を見つめながら、今、目の前で起こっている事を必死に整理しようとしていた。
ふらりと一歩、足を踏み出す。

――――――……おい、」

何度もかかってきた電話。
それを頑なに取ろうとしなかったファイ。
あの夜風呂場で倒れ呟いた言葉。
勇気をちょうだいと縋る様に抱き締めた細い腕。
体中至る所に浮かぶ痣。

「……今、の……なんなんだよ……」

幸せだと照れくさそうに笑った顔も優しく抱き締めた温もりも教室のドアを開ける度に嬉しそうに待っていた姿も試合出場を自分の事以上に喜んでいた事も、

「……なぁ、」

そして、好きだと告げ零した涙も何もかも全てが、

「……何とか、言えよ……」

今、少年の中で初めて、一本の線で繋がったのだ。

――――――――――……ろ、た……」

こちらを向いたファイの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。光を失った空色の瞳からは、大粒の涙を流し続け、何かを紡ごうとするが上手く噛み合わない唇を必死に動かそうとする。

「……の人、は……」

少年はファイの言葉を待った。すると、



「あ、の人、は……。オレの、本当の父親じゃ、ない……」



驚く少年の前で、ぽつりぽつりと、ファイは己の過去を語り始めたのだった。