ふと、先輩に声をかけられた。
時刻は既に夜の8時を回っていた。丁度部活動も終わりに近づき、1年生だけで防具などの片付けをしていた時だった。
体育館前で、お前の彼女が待ってるぞと。
何だ仲直りしたのかよちくしょうと、冗談めかして、又は半ば本気でそう言ってくる先輩たちの声を背にして、自然と足は駆け出していた。



# ウタカタの桜 第8話 #



体育館からグラウンドに通じる低い階段を、裸足のまま駆け降りる。
探さなくてもその人物はすぐに見つかった。すっかり日が落ちた暗闇の中でも、ライトに照らされ綺麗に輝く金の髪。少年の足音に、その髪がふわりと揺れて振り向いて、

「黒たん!」
「ぅわっ!」

そして飛び込んで来た。己の胸元にピンポイントで狙いをつけ飛んで来た人物を、少年は慌てて受け止める。しかし相手の勢いの方が勝ったのか、ぐらりと後ろに体が傾いた。情けない、明日から下半身をもっと強化しなければ。
下から3段目の所で(といっても全部で4段しかないのだが)尻餅を付き、なんとか階段との直接接触は避けられたのだが。

「って―――
「あっ、ごめん大丈夫!?」

がばりと少年の胸元から顔を上げ、ファイはそう言った。
前も同じ事あったぞこの野郎、と文句を言おうとしたけれど、ファイがホントに大丈夫?と心配そうな顔を近づけて来たものだから慌てて顔を逸らす。そして相変わらず突拍子も無い事をやってくれるなと、心の中で苦笑した。
ファイとこうして会わなくなってから、既に2ヶ月以上が経っていた。そう、2ヶ月。

「……今更何の用だよ」

口から出たのは、そんな言葉。
思ったよりトーンが低く、かなり突き放した言い方になってしまい内心少年は焦った。まずいまた傷つけたかもと、ヒヤリと汗を掻いた少年にファイは、

「あのねオレ聞いちゃったのっ!!」

なんて事を言ってきた。
何をだ誰からだと瞬時に心の中で突っ込んで、しかしかなり興奮している様子のファイは、そんな少年を気にもせず目を輝かせながら早口で続ける。

「それですごくビックリしちゃって嬉しくて」
「………」
「待ちきれなくてでも邪魔しちゃ悪いと思ってでもそれでも会いたくて」
「………」
「だからさっき同じクラスの子呼んでオレが待ってる事黒りんに言ってってお願いしたんだあーもう本当に良かったね黒りん!」
「………オイ、」
「ん?」
「さっきから何の話をしてんだてめぇは」

少年の言い分は最もだった。会ってそうそう弾丸のようにしゃべりまくるファイに、少年の思考はついていかない。いや、ついていける奴がいたらそれはそれで見てみたいが。
言われたファイは、一瞬きょとりと目を丸くし、

「え?だって黒ぽん試合に出るんでしょー?」
「…あー」

そう言われ、やっとファイのこの言動を理解した。
1ヶ月後に行われる秋の新人戦。その出場選手に少年が選ばれたのは、つい最近の事だ。約1年のブランクがあるとはいえ、元々かなりの腕前だった少年はメキメキとその頭角を現し、今では部内でも対等に渡り合えるのは2,3年の中でもごく僅かであった。1年など相手ではない。少年が選ばれたのは、至極当然の事と言えるだろう。
少年は一度息を吐くと、とりあえず落ち着けとばかりにファイの脇の下に手を入れ、ヒョイと自分の上からどけた。

「まぁ、そうみたいだな」
「わっ、やっぱりホントなんだ!うわーうわースゴイねやったね!!」

良かったねぇと、再び抱きついてきそうな勢いのファイを少年は慌てて片手で制す。
どうやらファイの話では、少年の大会出場を知ったのはついさっきの事らしい。図書室で一人勉強をしていた時、近くにいた女子グループの会話を聞きかじったのだという。

「黒ぽん、ホントに剣道好きだもんねー」

へにゃりと笑ってファイは言う。
その2ヶ月ぶりの笑顔に、少年の心臓は容赦なく鳴った。


# # #


あの日。少年がファイの部屋を去ったあの日から、二人がこうして顔を合わす事は無かった。
ついに別れたのかそれとも喧嘩をしたのかと、口さがの無い生徒達はそこかしこで噂をしていたのだけれども。
勿論完全に二人が顔を合わさないという事はなく、廊下等で偶然会う事はあった。しかし、その度に少年はすぐに顔を背けてしまうのだ。すると何か言いたげに口を開いたファイも、そんな少年を見て噤んでしまう。そんな事が度々あった。
全く我ながらガキだなと少年は思う。目を逸らす瞬間、視界の端に認めるファイの表情が、瞼の裏にいつまでも色濃く残っていた。心底傷ついたかのような、あの表情。

ふう、と少年は息をつく。そしてバタリとロッカーを閉め、すぐにその場を後にした。


# # #


「黒りんっ!」
「でっ!」

ばたーん。

もう3度目なのだからいい加減慣れろとも思うのだけれど、如何せんファイの行動は予測不可能な事が多すぎる。
先ほどと同じように何の前触れも無く飛び込んで来たファイを、やはり同じように受け止めきれずに地面へ尻餅をついた。共に仲良く、ともすればファイの方が少年を押し倒しているかのように見える格好で地べたに座り込んでいる二人は、傍から見ればさぞかし滑稽であろう。

―――てっめ、何度やれば気が済むんだ!」

がばりと頭を上げて少年は叫ぶ。
もうすぐ部活が終わるからそこで待ってろと、そう少年は言い残し体育館へ戻っていった。そして好奇な視線を寄こしてくる部員達を横目に、いつもの倍のスピードで片付けと着替えを済ませ部室を出る。すると待っていたのは、先ほどのファイの攻撃だった。
そんな少年の至近距離での咆哮など気にもせず、ファイはあははーと全く悪びれない様子で笑って、

「だって黒ぽんと一緒に帰れるなんて久しぶりだし嬉しいしー」

にっこにっこにっこにっこ。
その笑みを更に深め見つめてくるファイに、少年は一度くらりと眩暈を覚えた。そして思わずその手をファイの細い金糸に伸ばしてしまったのは、絶対に自分のせいではないだろうと、そう言い聞かせる。
何も言わず、急に頭に手を置かれ、ファイは一瞬驚いたようにその目を大きく開いた。つ、とその太くしっかりした指で髪を撫でられ、それに誘われるかのようにファイの頬も紅潮する。そして次に破顔した。嬉しそうに。

「えへへ」
「…何だよ」
「んーん、何でもー」
「わけわかんねぇ」

そう呟き、少年は一度強くぐしゃぐしゃと髪を混ぜる。そして立ち上がり、後ろから聞こえてくる非難の声を無視して歩き出した。照れ隠し、だなんて、そんなのは過ぎる程に自覚している。
数歩歩いたところでファイが追いついてきた。ヒドイよ黒たんのばか何すんのさーと毒付かれたけれど、その顔が余りにも緩んでいたので、少年は思わず噴出してしまった。

「あっ、何笑ってんの黒りんー!」

そう怒る顔も久しぶりだなと、自分も同じように顔が緩んでいる事など気が付いていない少年は笑い続ける。
そして薄闇の中、光る金を頼りに2ヶ月ぶりの道を歩いた。勿論、その隣にはファイの姿があって。
その状態にひどく満たされている自分に気付き、会わなかったこの2ヶ月の間、少年は思った以上にファイに飢えていたのだと自覚した。
ふと、足を止めファイを見下ろす。半袖のブラウスから覗く白く細い腕には、以前のような痣は無い。それに安堵しつつも、脳裏に過ぎるのはあの時の光景だ。
白い肌に散らばる痣。あの涙。そして―――父親。
そこから導き出される答えは一つしかなく、容易に想像する事が出来た。けれどそれは少年にとって余りにも生々しく、その答えに辿りつく直前に心のどこかで本能が拒絶する。だから依然として、曖昧な形で少年の中に巣食ったままだった。
怖いのかもしれない。本当の答えを知る事を。現実を、知る事を。

「黒むー?」

急に歩くのを止め黙り込んでしまった少年に、ファイは心配そうに見上げてきた。それに少年は何でもねーよと返し再び歩き出す。
すると次の瞬間、左腕に重みを感じ少年は仰け反った。何だと思い視線をやると、そこには少年の腕を掴んでいるファイがいて、

「?おい、どした、」
「黒むーは、」
「は?」
「黒むーは…優しいね」

ありがとう、とそう聞こえたような気がした。
俯いているために、少年からはファイの金糸しか見えない。その一本一本の流れが手に取るように分かるファイの髪は、薄闇の中、外灯に照らされその存在を際立たせている。キラキラと。

「……何が、」
「…ううん、ただの一人言」
「そか」
「うん」

そう言い、離そうとしたファイの手を少年は捕らえる。そしてそれは離さずに。
その夜、二人は初めて手を繋いで帰った。

少年は思う。
今はこのままでいいと。前と変わらず、こうしてファイが隣にいてくれさえすればもう、ただそれだけで、充分だと思った。


# # #


しかし、現実は容赦なく少年に襲いかかる。
急に呼び出された職員室。他の者に話を聞かれないよう、間仕切りされた部屋の片隅で、それは静かに置かれていた。

―――――――――――え?」

そして告げられた言葉の内容を、少年は即座に飲み込む事が出来なかった。
飴色に光る机の上には、一枚の写真が置かれていた。そこに写っているのは、少年ともう一人で。それはあの日、公園でファイを襲ったあの男だと、少年が気付かないはずはなかった。

「これは君だね?」
「昨日、この写真が送られてきてね。こっちの……殴っている方が君だとしたら、これは暴力事件になる」
「幸い日付を見る限り、これはどうやら君が部に入部する前のものだ。だから部全体への罰則はないが、残念だけれど君には―――

本当に残念だと、そう言う顧問の声は遥か遠くに聞こえた。
そしてその後自分はどうやって返事をしたのか、職員室を後にしたのか、少年は全く覚えていない。気が付いたらいつもの場所へと足を向けていた。
ファイと初めて出会った、あの桜の場所へ。

「黒たん遅いよー!」

待ちくたびれたーと頬を膨らませ、文句を言うファイに少年は視線を向ける。
2ヶ月ぶりに一緒に帰ったあの日から、二人は登下校はもちろん昼休みも共に過ごすようになった。ファイ手製の弁当を食べ、取り留めの無い話をする。たったそれだけの事なのに、少年の心はいつも浮き足立った。
今日だって同じだ。同じに、したかった。

「見て見て今日のお弁当はちょっとすごいよー。ホラ、黒たんの好きな海老チリと麻婆茄子とそれに豚キムチでしょー。それと唐揚げもたくさん作ってきたから部活終わった後皆で食べ…て……」

少年に駆け寄り、弁当箱の中身を見せながら言った明るいファイの声は、突然力を失い、そして消えた。
視界が白一色になる。それは、少年のシャツだと気付くのに数瞬かかった。いつも隣で感じていた温もりが、すぐ間近にあったのだ。

「え、…え?く、黒た、」

急に抱き締められ、訳も分らずにファイは顔を赤らめた。
しかしその細肩に顔を埋め、以前ファイがしたような、幼子が母親に縋り付くようなそれに、端正な眉が寄る。
常とは余りにも違う、その様子。

―――何か、あったの…?」

問いかけても少年は答えなかった。何も言わずにファイを抱き締めるだけで。
そしてファイがもう一度名前を呼ぶと、ぴくりと反応し、慌てて身を離した。今自分が何をしたのか気付いたのだろう、しかし赤く染まるはずのそこは、何故か青く血の気が引いていた。

「……ぁ、悪ぃ、」
「黒た、」
「いや、…マジ、何でも……ねぇから、」

いつもなら真っ直ぐにファイを見つめるその紅を逸らし、少年はそう呟くと身を翻し去っていった。咄嗟に追いかけようとしたけれど、ファイの足では少年に敵うはずもない。

そしてその日の放課後、少年の大会出場が取り止めにされたと、そう、噂が流れた。


# # #


カタン、と男は立ち上がった。
そこから一望出来る夜の都会を見下ろしながら、綺麗に整えられた黒髪をさらりと揺らす。

「嬉しいよ、ファイ。自ら会いに来てくれるなんて」

男の声は、ファイのその身を凍らせる。ぎゅ、と拳を握り震える体を叱咤した。
怖かった。ファイにとってこの男は恐怖だった。

「……今日は、話があって来ました」

乾いた喉を振り絞り、ようやく出た声は弱々しい。
男はそれに一つ笑うと、振り返る事なく口を開いた。

「最近、またあの面白い生物を飼い始めたそうだね。私がいない間、そんなに淋しかったのかな?」

その口調は、不自然な程ゆっくりとしている。
それはこの閉鎖された空間に徐々に浸透していき、ファイの体をどろりと包み込んでいくのだ。残酷に。

「黒鋼くん…だったかな?彼も愚かだね、大人しくしていればよかったものを」
「っ、やっぱり、黒たんが大会出場停止になったのって、」
「私は、君があんな下賤な者に汚される様は見たくはないんだよ」
「何で……っ、黒たんは何もしてないのに!」

ファイが声を荒げる。その両眼にじわりと涙を浮かべて。
それを見、男は目を細める。

「何もしていない…。果たして、本当にそうかな?」

そう言い、引き出しから何かを取り出す。ファイの位置からはよく見えないが、それはどうやら写真のようだ。
男はそれを指先で弄び、まるで歌うように言った。

「彼も可哀想だね。両親を共に亡くし、2度も大会を出場停止になるなど…。でもそれは、全て彼が招いた結果だ」
「っ、だから何で、」
「ファイ。私はある程度の自由は許してやると言ったが、誰かに君をくれてやるとは一度も言ってはいないよ」

ひらりとファイの手の平に置く。
そこに写っているものを見て、ファイは、

「君は、彼を幸せになど出来はしない」

解るだろう?と、言葉とは裏腹にどこまでも優しく男は囁く。
目の前のそれを信じられないという風に見、その顔を更に白くし震えているファイの頬を一つ撫で。
そしてその手を差し出すのだ。それはあの歌のようだった。行く宛てのない少女を連れ出した、あの大人のような。

服を脱ぎなさい、と男は静かに命令する。そして。

「さあ、黒鋼くんという人質が出来てしまったね。―――どうするんだい?ファイ」



目の前が、闇に染まった。