唄が聞こえる。
静かで、それでいて哀しげな。ただひたすらに、ワンフレーズだけを繰り返す。
「…下手くそだな、お前」
そう言うと、振り返って笑顔を見せた。少し眉を下げ、困ったかのように。
そして。
―――昔、父親がよく歌っていたのだと。
どこか懐かしい目をして、そう言った。
# ウタカタの桜 第7話 #
次の日。偶然にもファイに会った。
昨日の今日でまさか会えるとは思っていなく、少年はとても驚いた。
「あ、黒むーだぁ!」
嬉しそうにそう言って駆け寄ってくるファイに、自然と口元が綻ぶ。
そんな少年に驚いたのだろう、ファイの足が途中で止まった。少年までにあと数歩の距離を残して。
「…そのカオ、ずるい」
そして呟かれた言葉に、ファイの目元が少々赤くなっているのを認め、少年はようやく自分が笑っている事に気が付いた。途端に同じように、いや、それ以上に顔を染める。
そんな少年にファイはクスリと笑うと、
「ね、何してるの?ランニング?」
「…いや、夕メシの買い物に」
「えっホント!?じゃあ今日もゴハン食べてってよー!オレも今から買い物行くトコだし」
昨日のお詫びも兼ねてさ、と両手を合わせさも良い考えだ!とでも言うように、きゃぴきゃぴという音が聞こえてきそうな声で言う。
昨日。その言葉に少年の心臓が一つ跳ねた。昨日、初めて覚えた2つの感情。少年はまだそれらに名を付けられないでいる。甘く突き抜けるような衝動とそして、胸を焦がす呻き。
あれは何だったのだろうだなんて、もう気付かない振りが出来ない所まで来てしまっている事は分かる。ずぶずぶと、中学の時とはまた違う感情に飲み込まれそうになっている。
より、深みに。
「いいのかよ。その…来てんだろ、父親」
「あ、うん大丈夫。仕事だからって朝方帰ったから」
忙しいんだー、と何でもない事のようにファイは話す。
それにふぅんと呟いて、少年は歩き出した。
「え、ちょっと帰っちゃうのー?」
「バーカ違ぇよ。……買い物、行くんだろ」
ほら、とファイの手首を掴み少年は言う。それに一瞬驚いたような表情を浮かべ、そしてファイは破顔した。
一方少年は、掴んだ手首の余りの細さに、ひどく、狼狽した。
# # #
トマトケチャップに米に卵、鶏肉に玉葱にマッシュルームにそして何故か生クリームも。最後のは置いておいて、材料だけ見れば今日の夕飯のメニューはすぐに分かる。
生クリーム入れると卵ふわっふわなオムライスが出来るんだよーと、何故かそう自慢気に言われ、少年はへぇとだけ返した。そもそも洋食自体好きではない。オムライスなんてここ数年口にすらしていなかった。
それを言うと相手はひどく驚き、
「じゃあオレが、黒りんにとびっきりおいしいオムライス作ってあげるねー」
と、これまた何故かウインク付きで言った。
そして今、ファイはキッチンにいる。トントントンと何かを切るリズミカルな音をリビングで聞きながら、少年は自分の手を見つめた。
「―――…」
先程掴んだあの手首。その、細さに。
いや、以前掴んだ時も(あれは腕だったが)高校男子にしては細いと思ったのだ。女の手首など掴んだ事はないが、それこそ女かと思ってしまう。衣服の上からだとしても、あれは尋常ではなかった。
聞こえてくる音は、いつの間にかジュージューという炒めるそれに変わっていて、バターの良い香りが鼻腔ををくすぐった。その時。
―――ガタンッッ!!
突然物音がし、少し遅れて何かが床に落ちる音と、カランカラン…という音がした。
キッチンからのそれに、少年は素早く反応する。反射的に駆け込み、そこで見たものは。
「っおい!」
「……ぁー…」
そこにはシンクに手をかけ、力無く座り込むファイがいた。ふるりと頭を振るが、それでも立ち上がる気配は無い。
少年はファイへ駆け寄った。
「おい、どうした!?」
「……いやダイジョブだよー。あはー、へーきへーき」
「嘘言うな、どこが平気だバカヤロウ」
「…ちえ、やっぱダメかー…。うん、ちょっと……貧血?」
「貧血?」
「うんー…あ、まずい。ちょっと…いやかなりヤバめ、かな…コレは」
ぐ、と手に力を入れ立ち上がろうとする。
しかし膝が萎えているのか、再びへなへなと床に戻ってしまった。
「アホ、無理すんな」
「……うんー…」
聞こえてくる声も力が無い。
少年は一つ舌打ちをすると、ファイの腕を掴み自分の首に回させた。何をするのだろう、とファイの目がちろりと動く。
「黒たん…?」
「少し我慢しろ。ベッド、連れてくか、」
「――――っや!ベッドはダメッッ!!」
突然、ファイの悲鳴と共にどん、という強い衝撃を感じ、少年は突き飛ばされた。
どこにそんな力が残っていたのだろう、驚いて目の前の人物を見つめると、
「―――ぁ…」
「…どう、した?」
そこには、はあ、と肩で息をしながら震えているファイがいた。少年はファイに、こんなに全力で拒絶されたのは初めてだった。
ファイの方も突き飛ばしてしまった事に驚いているようだ。双方の蒼を大きく揺らす。
「…ご、め―――っ、」
そして途中で言葉を切ると、口元を押さえ嗚咽する。そしてふらつく足で立ち上がり、どこかへと消えていった。
少年は咄嗟に追いかけようとしたが、すぐさま聞こえてきた音にその足を止める。
足下には溶いた卵であろう黄色い液体が零れ落ち、銀色のボールが虚しく転がっていた。それを見て、ちり、と少年の胸で何かが疼いた。
# # #
唄が聞こえた。
所々伸びの悪い、言うなれば下手くそなその歌は、幼少の頃なら誰しも耳にした事があるだろう、とある少女が異国へと旅立っていく歌。手に手を重ね、行く宛ての無い少女を連れ出した大人と共に。
短い、たった数十秒で終わってしまうその歌を、ただひたすらに繰り返す。
『…下手くそだな、お前』
そう言うと、振り返って笑顔を見せた。
少し眉を下げ、困ったかのように。
『べー分ってますよ』
『でもまぁ……嫌いじゃねぇな』
その後、ファイは何と言ったのだろうか。
どこか懐かしい、それでいて哀しげな目を、して―――。
# # #
しばらくして戻ってきたファイは、それでも笑顔を浮かべていた。
「えへへゴメンねー変なトコ見せちゃって」
少年が何か言う前に口を開き、早口でそう告げる。
そんな態度に少年の眉は寄ったが、それでもファイは続けた。
「昨日ちょっと父と喧嘩しちゃってさーそれで、寝不足…」
「……」
「前から受験しないで家に戻れって言われててね。もちろんそんなのオレは嫌なんだけど、何か…うん、そーいうのでモメてて」
あはは恥ずかしいねとファイは笑う。
「過保護っていうの?何かそんな感じなんだーうちの父。だから、黒りんには関わって欲しくなくってさ」
だから昨日もあんな追い返すような形になってしまったのだと、そう謝るファイに、少年は眉間の皺を更に深める。
「あ、でも黒りんが気にするような事じゃないからー。だいじょぶだいじょぶ」
そう笑って言い、これでこの話は終わりだとばかりにキッチンへ身を翻す。少年に背を向ける、その最後の最後までファイは笑っていて。
笑顔。笑顔笑顔笑顔。
その瞬間、少年はファイの腕を掴んでいた。
「お前…何言ってんだ?」
「え?な、何って…」
少年の言葉が咄嗟に理解出来なかったのだろう、その蒼い瞳が戸惑いに揺れる。
掴んだ腕は細い。骨と、僅かな肉とただそれだけ。でもそこには確かに流れているものがあるはずだ。人の暖かい血が。
しかし、今のファイにはそれが全く感じられなかった。
「俺がいつそんなこと聞いた」
びくり。布越しの腕がやけに大きく反応する。傍目から見ても誤魔化しきれないほどの震え。
そんなファイの反応にも、少年はひどく苛ついた。だって、おかしいではないか。
普段自分の事はほとんど話さないファイが、今日に限ってべらべらと話す。他人事のように、何の事でもないかのようにへらへらと笑って。
それはまるで、何かに怯えているようだった。少年に、何かを知られるのを恐れているような。
どうしてファイが恐れるのかは知らない。何に怖がっているのかも知らない。しかしこれだけは分かる、確信を持って言える。
―――コイツは、嘘をついている。
「昨日、何があった」
少年は核心をつく。
そして一度息を吸い、違うな、と呟いて言い直した。
「昨日…本当は、何があった」
父親と。
その瞬間、ざあ、とファイの顔から血の気が引いていくのが分かった。
元々白いその顔が更に白く、青白くなる。固く強ばっていた腕が次にカタカタと震え出し、その瞳はもう既に少年を映してはいなかった。
確信は当たっていた。それを認め少年の心は逸る。あと少しだと思った。あと少しでファイの本心に辿り着く。そう思ったのだ。けれど。
「―――や、やだなぁ黒ぽん何怒ってるのー。ちょっと…ホントに喧嘩しただけだって……」
そこには、それでも尚笑顔を作ろうとするファイがいた。
その時、少年の胸に去来したものは怒りだった。一瞬にして目の前が赤く染まるのを感じ、
「っ、や!」
ファイの腕を引き、思い切り壁へと押しつけた。
痛みに顔を歪めるファイを無視し、空いている方の手を壁につけ閉じ込める。
「な、何黒たん怖い…」
「てめぇ……ふざけんなよ」
恐怖に怯えるファイと目が合った。訳の分からない怒りが、少年をぐつぐつと押し上げている。
そして、ぐ、と掴んでいた腕を持ち上げ、それも壁へと押しつけた。その時。
「―――な、んだ…コレ」
「え…?」
その瞬間、目に飛び込んで来たものに少年は驚いた。掴んだため少々ずり落ちた袖から覗く、白く細い手首の―――。
少年の視線の先を認め、ファイはその双眼を大きく開き、見ないで!と叫んだ。と同時に腕を振り払おうとする。
その手首には一本、赤い線がくっきりと浮かんでいた。
過去に付けられたという類のものでは無い事が一目で分かる程に新しい。つい最近の―――例えば昨日、とか。
その考えに至り、少年の心臓がどくりと鳴る。まさかと思った。
早鐘を打つ心臓を無視し、少年はファイの衣服に手をかける。逃れようとするファイを押さえ込み、襟元から左肩にかけてぐい、と乱暴に服を引っぱった。
そしてそこに散らばる痣、痣、痣。
「―――――なんなんだよオイ、」
白い肌に咲く、大小様々な大きさの赤黒いモノ。
それらは外からは決して見えない位置に、不揃いに並んでいた。
「え、えと…昨日、ちょっと転んじゃって……」
しかし耳に飛び込んで来たのは、それでも言い繕うとするファイの声だった。
転んだ、なんて嘘が上手いファイにしては稚拙すぎるものだ。その事も、少年の怒りに拍車をかける。
「これ、明らかに殴られたアトだろ…」
「ち、がうの、ホントに転んだんだって」
「っ、ここまで来てまだ嘘つくのかテメーは!!!」
「―――っ、!」
少年の一層大きな声が部屋中に響き、途端、ファイの瞳から何かが零れた。
それが少年の足にポトリと音を立て落ちてくる。
「……あれ?」
口元に薄い笑いを浮かべ、ファイは不思議そうに自分の目元に手を当てた。そして指先で感じたものに驚いたのだろう、その手を見つめる。
それでも次々と溢れてくる涙を止めようと、少年から腕を外しごしごしと袖で拭いた。
「っ、…ご、ごめ…ど、どうしちゃったんだろ、オレ……疲れ、疲れてるの、かなっ。あ、はは…っ、」
ずるずると、壁に背を預けずり落ちる。涙は一向に収まる気配は無いようで、しゃくりあげながらごめんねごめんねと呟くファイを、少年は奇妙な冷静さを持って見つめていた。
何故そこで泣くのか何故謝るのか何故そこまで頑なに隠そうとするのか。
分からない。分からない事が多すぎる。
「―――――――分かったよ、」
そして長い長い沈黙の後。
ぐ、と拳を握りしめ、その双眼はファイを見下ろし、ポツリと少年は呟いた。その言葉に、ファイは伏せていた顔を上げる。
「え…」
「よく分かった。てめぇが何したってホントの事言わねーんだって事が」
「ち、ちが、」
「何がちげーんだよ」
「そ、れは…」
ほら、いつもこれだ。踏み込もうとすると途端に逃げる、隠す、心を閉ざす。最初に近づいて来たのはそっちなのに。
一緒に帰ろうと誘って来たのは、ファイの方なのに。
「―――ホントに、言う気はねーんだな」
声が、震えた。
目の前のファイに対して何故こうまで怒るのか、その理由など分からない。こんなぐちゃぐちゃな思考では考える事など出来なくて。
ファイは何度か口を開いたが、しかしそれが音になる事はなく、ふと、糸が切れた人形のように再び俯いた。
そのファイの後頭部を見て、少年もまた、自分の中で何かが切れたのを感じた。
「もういい」
少年は言う。そして身を翻し、ジャージを羽織るとそのまま玄関へ歩いていった。
キッチンを通る時、作りかけのオムライスが視界に端に入ったが、それを無理矢理追い出した。そしてかかとを踏みつぶされボロボロになった靴をつっかけ、ドアノブへと手をかける。
ファイが追いかけて来る気配は無い。きっと、あの細い肩を震わせ泣いているのだろう、その姿を想像したけれど。
ドアを開ける。すると背後でガタリと物音がしたが、それも無視した。そして一度も振り返る事のないまま、少年は出て行った。
だから少年は知らない。そこには一人、まるで母親に見放されたかのような表情をした子どもがいた事など。
そして梅雨が過ぎ、試験期間を経て夏休みに入った。
しかしその間、二人が会う事も再び登下校を共にする事も、ただの一度も無かった。気付けば、季節は夏を通り越し秋へと向かっている。
その中で、少年が秋の新人戦の出場選手に選ばれたと、そう噂が流れたのは、2学期に入ってすぐの事だった。