ぽんぽんと優しく頭を叩かれて、子ども扱いするな、と思ったけれど、その心地良さに目を閉じる。すると。
唄が、聞こえてきた。
# ウタカタの桜 第6話 #
サアァァ……。
雨季に入った空は、いつものように青々とはしていない。薄いグレーと、そこに浮かぶ少し濃い灰色の雲は容赦無く雨を降らせている。毎日毎日、こうも続くといい加減気が滅入るというものだ。
しかし、そんな中でもファイは上機嫌だった。誰もいなくなった教室の片隅でぽつんと、参考書とノートを広げ、足をぶらつかせながら問題を解いていく。一問一問ペンを走らせ、さくら色の唇からは流暢な英文を響かせて。それは、外の雨音と混ざり合って綺麗なハーモニーを奏でていた。
こんな遅い時間に広い教室に一人で、帰国子女なファイにとっては少し退屈なライティングを勉強しながら、たった一人の待ち人を待っていた。
剣道部に入ったと、そう聞かされたのはあの日、少年が自分の中学時代を話してくれた日から数日経ってからだった。
自分のせいで大会出場を取り止めにされ、その責任を感じ、部からも剣道からも遠ざかった少年。弱み等、決して他人には見せようとしない少年が初めて語った話は、きっと、ずっと一人で抱え込んでいたのだろう、ファイにはそれがとても良く分かった。誰にも話さず、誰にも話せず、長い間心の内にあった秘密。それを自分だけに見せてくれた、その事がとても嬉しい。
しかも再び剣道を始めるという。あの日、自分は特に何もしてはいない。ただ話を聞いただけだ。だからその決意が少年自身で生み出したものだという事も、この上なく嬉しかった。
『あ、でもそうなるともう一緒には帰れないねー。それはちょっと残念かも』
『……』
『どしたの?』
『…だったら、』
『ん?』
その後に呟かれた言葉を思い出し、自然と口元に笑みが零れる。まさか少年の方からあんな事を言ってくれるだなんて、出会ったばかりの頃には想像もつかなかっただろう。
と、そこで誰かが階段を登ってくる音がした。キュッキュと、じんわり湿気った廊下を踏みしめて歩いてくる、その足取りの重さから今日はいつも以上にしごかれたな、なんて笑って。そんな足音一つで分かってしまう自分に、正直驚いているのだけれども。
あと数秒たらずで教室のドアは開かれるだろう、そこにいつものように無愛想な顔がある事も。そんな確実な未来に再び笑って、そして、ガラリと音のした方へ笑顔を向けた。
# # #
「黒ぽーんお皿取って!2枚ー」
「あ?どれだよ」
「違うそっちじゃない右右あーその下だってそうその青いヤツわーわー早くしないと焦げるー!」
「……………………うるせぇ」
風呂場でシャワーを浴び、戻って来たと思えば開口一番そう言われた。
濡れたままの髪にバスタオルを掛け、少年は言われるままに皿を出す。それをファイの元へ持っていくと、感謝の言葉と共にそこに茶色く丸いものが乗せられた。
焦げる事なく程良く焼けたハンバーグにファイは満足そうな表情を浮かべ、他の料理もぱぱぱと手際良く盛りつけリビングテーブルまで運んでいく。
こうやって向かい合って食事をするのはもう何度目だろう、数えるのも面倒臭くなるくらいにこうしている。さすがに毎日、とまではいかないが、週に2,3度はファイをマンションまで送り、そのまま夕飯を食べていく。週末は偶にだけれど泊まっていく事もあった。
半同棲だね、と笑って言ったファイの言葉を、全力で否定したのはまだ記憶に新しい。
「どう、おいしい?」
「…まあまあ」
「ふふ、良かった」
身を乗り出しそう聞いてきたファイに、いつものようにそっけなく返す。
このやり取りも何度やったか分からない。「まあまあ」など他人が聞いたなら不快に思うだろう台詞も、ファイ相手にだと効果はない。この少年の「まあまあ」はイコール「美味しい」という意味だと、ファイは良く分かっているからだ。
そして、ファイがそれを分かっている事も少年は知っている。だからこそ、余計に腹が立つのだが。
「部活はどう?今度練習見に行っちゃおうかなー」
「ヤメロ来るな」
「じゃあ行くねー」
「来るなっつってんだろ」
「差し入れとか持ってった方がいいのかなー。ほら、レモンのハチミツ漬けとか?」
「……」
きゃいきゃいと楽しそうに話すファイに、少年はもう何言っても無駄だと悟り黙った。
この年上のこういう所に弱い。生真面目、とまではいかないが、冗談が通じないタイプの少年には、ファイのへらへらと笑って嘘かホントか良く分からない話し方をする性格には正直ついていけない。どうにも敵わない、と思いたくなくても自覚させられてしまう。
そんな少年に、ファイは更に追い打ちをかける。
「だって『待ってろ』って言ったの黒むーでしょー?」
だからそこでそれを言うのかと。
心底意地の悪い笑みを浮かべそう言ってくるファイに、ハンバーグを口に放り込みながら無言で抵抗する。
しかし次に聞こえて来た言葉に、あっさりとその抵抗を解いた。
「受験勉強するのも何か飽きたしねー」
「…受験、すんのかよ」
「え、するよ?何で?」
いや何でと言われても。
ファイから『受験』という言葉を聞いたのは初めてだった。3年生ともなれば当たり前の事なのかもしれないが、ファイの口から改めて聞くと何だか変な感じだ。
そして、少年はそこでふと思い当たる。
「…まさか、大学も女で通すのか?」
少年のその言葉に、ファイは一瞬虚をつかれたような顔をし、次に大声で笑った。
「あっははーまさかぁ!高校卒業したらちゃんと男に戻るよー」
「つか何で女装してんだ」
あ、と思った。口に出して初めて気付く。出会って約2ヶ月。全くもっておかしな話だが、何だかもうそれが当たり前になっていて今まで気にならなかったのだ。
そういえば何でコイツは女として学校に通っているのかと、本当に今更ながら疑問に思った。
問われたファイは一瞬考えるような素振りをし、ちろりと目だけこちらへ向け、
「…知りたい?」
「……」
「しょうがないなぁ、教えてあげるよ」
「何だよ」
「ふっふーん、ズバリ」
少年の質問に、ファイはまるでドラマの中で探偵が犯人の名を挙げる時のような顔をする。
目を細め少し偉そうな、それでいて自信に溢れているような、その。
「反抗期」
にっこり。
細めた目を更に細め、ファイはそう言った。
# # #
明日土曜日で部活無いでしょ?泊まってってねと、ウキウキと布団を敷きながらファイはそう言った。そこにごろんと寝転がり、考える。
『反抗期』、とは何だろう。そう聞いたら、そのまんまの意味だよと返された。
『反抗期』―――自分にもそんな時期はあった。しかし一般の高校生が、たかが親への反発だけで『女装』などするものだろうか。
いや、普通はしない。フツーは。けれどこの場合、ファイは普通ではないのだ。
分からない、未だにあの年上の行動は全く理解出来ない。
やはり外見が日本人以下略。ファイと出会ってから4度目になる言葉を内心呟きながら、少年は寝返りを打つ。そしてふと、そこである事が浮かび少年の眉が寄った。
そういえば自分は―――。
その時だ。
「くーろーたんっ!!」
「ぅわっ!!」
どか、とあまり聞き心地の良くない音が響いた。それは、ファイが自分の上に乗っかってきたからだと気付いたのは一瞬後だ。
勢い良く飛びつかれたので、ファイの肩に強かに鼻を打った。
「ってー…」
「あっゴメン!だいじょぶ?」
「てめぇ、いきなり何す―――っ!?」
少々赤くなった鼻を押さえ、ぎろりと相手を睨んで少年は叫ぶ。そしてその瞬間、目にしたものにひどく驚いた。
飛び込んで来たのはまず蒼。そして、次に白だった。風呂上がりのためか、ほんのり色づいている肌。衣服越しに伝わる体温も心なしか高い。そして、自分のものとほぼ至近距離にあるそれ。さくら色をした唇が。
ぎょっと、した。
「あ、ちょっと逃げないでよー」
「く、来んなっつーの!」
「ちょっとくらいいいじゃないー」
「俺は嫌だ!!」
思わず身を引いた少年に、意も介さずファイは乗り上げて来る。細い背をしなやかに曲げて、顔を近づけてくるその様はまるで猫のようだ。
少年は、訳も分からず心臓が高鳴るのをごまかせなかった。
その鼓動を胸越しに感じたのだろう、ファイは両頬を更に染めにんまりと笑い、
「…ドキドキしてる?」
「!知るか、」
「ふふ…あのね、オレもー」
ドキドキしてるでしょ―――?
少年の左手を取り、それを自身の胸に当てる。驚いた、なんてものじゃない。それ以上の、心臓が破裂するような感覚。衝撃。
コイツは男だと、そう分かってはいても、それでも止められないこの鼓動。これは一体何だと少年は思った。
と、そこでぽたりと少年の胸に何かが落ちてきた。それと同時に、目の前の人物がクシャミをする。
「……オイ、」
「え?」
「え?じゃねーよ。髪濡れたまんまじゃねーか」
丁度良いとばかりに、少年は左手を離しファイの頭へ移動させる。
かけてきたのであろうタオルは、先程の飛びつきのためか半分以上頭から落ちていた。それを再びきっちり乗せると、がしがしとやや乱暴に拭き始める。
勿論非難の声が上がったが、先程ファイがした行為に比べれば何て事はない。
「……へへ、」
「何だよ」
「うん…何て言うかー。オレ、幸せだなぁって」
「は?」
俯いているため表情は分からない。けれど、その声にはいつものあのへらへらとした冗談ぽさは含んでいなかった。
急に真剣になったトーンに、少年はドキリとする。
「何か、こうやって一緒に帰ってゴハン食べて髪の毛とか拭いてもらうなんて…。今までは考えられなかったから」
乱暴にしたためか、髪はもうほとんど乾いていた。それでも少年は拭き続ける。
ファイが、自分の事を話すのが珍しかった。いつも適当な所ではぐらかす、ふわふわと風に流される雲のように掴み所がないファイが。
だから今、ここで止めてしまったらそこで終わりのような気がして。
「…ここに閉じこめられているオレが、こんなに幸せでいいのかなって、ちょっと、不安に、なる……」
ぽつり。
小さく小さく呟かれた言葉に、思わず少年の手が止まる。
―――今、コイツは何て言った?
「黒みーはさぁ、オレといてさー……その、」
少しだけ見えたファイの顔は、風呂上がりだからという理由だけでは不自然な程真っ赤になっていた。
途端、襲った衝動。それを意識する前に自然と伸びていた手。近づく唇。
しかしそれを阻んだのは、以前聞いた、そして最近は全く聞かなくなったあの音だった。
愉快で軽快なあの音が。
近くのソファの上に放ってあった携帯電話が鳴る。ちかちかと赤いランプを点滅させながら鳴り響くそれを、ファイは素早い動作で手に取った。
どうやらメールだったらしい。電話をぱかりと開け、それを読み終えたファイは次の瞬間叫んだ。
「ちょっ…黒たんゴメン!」
顔面蒼白、とはこういう事を言うのだろうか。
電話を片手に目を見開いてそう言うファイは、急に身を翻すとリビングへ駆けて行った。そして戻って来たかと思えば、少年の鞄や制服を持っていて、
「悪いけどすぐ帰って!」
「は?」
何で、と少年が思う間もなく布団をひっくり返される。
バタバタと忙しなく布団をしまい、あーもー急スギだよーと独り言を言いながらクローゼットを閉めた。そして振り返って言う。
「ゴメン、この埋め合わせは必ずするからとりあえず今日はもう帰って!」
「おい、何なんだよ急に」
「いいから早くー!」
着替えて着替えてーとファイは急かす。何だと思ったが、ファイの様子が尋常ではないので大人しくそれに従った。時間は、まあ大丈夫だろう。ファイならまだしも、この少年に夜道の危険はほぼ無いと言っていい。
制服に着替えるのが面倒なので、寝間着代わりのTシャツの上に学校用のジャージを羽織る。雨が降っているためまだ少し寒いだろうが、どうせ自宅のアパートまでの距離だ。そうたいした事はない。
大人しく従いはしたが、納得はいかなかった。こんな釈然としないまま帰ってたまるかと、少年は再び理由を問う。ファイは迷っていたが、しばらくして観念したかのように話し始めた。
「ん、とー…実は、父親が日本に戻って来て。ここんトコ仕事で海外に行ってたから、まさか帰ってスグにここに来るなんて思わなかったんだ」
だからゴメンね?と、心底申し訳なさそうに言われてしまえば、こちらは黙るしかない。それに久しぶりの親子対面だ。それを邪魔する権利などあるはずも無かった。
やはりどこか誤魔化された気もしたが、分かったとすんなり受け入れた少年に、ファイは、
「―――ね、あの、さ…」
と、言いにくそうに体を揺らす。
そこで少年は気付いた。笑顔で全てを包み隠し、本心は中々言わないファイが時折見せるそれ。少しだけ俯き、両の指を絡めて体を揺らす。そうして途切れ途切れに言葉を紡ぎ始める。
それがファイの本心を話す時の癖だと、少年は初めて分かった。
「何だよ」
「うんー……ちょっと、さ。あの…だ、」
「だ?」
抱きしめても、いい?
くらり、とした。もちろんそれは、目の前のファイの言葉に対してだ。
先程の、ファイの父親からメールが来る前の状況に再び戻ったなと、心のどこかで思いながら、少年はその申し出に頷いていた。
おずおずとした動作で腕が回される。さっき飛びついてきたあの勢いはどうしたのかと、ちょっと可笑しかったが表には出さなかった。
ファイはそのまま少年の背に腕を回し、少しだけ体重をかけてくる。そして胸に顔を埋めぽつりと呟いた。
「ゴメンね。少しだけ…勇気をちょうだい」
ぎゅう、と抱きしめる力を強める。
年上なのにその動作がとても幼く見えて、何だか切なくなって少年の眉が寄った。まるで幼子が母親に求めるような、縋り付くようなそれ。
それに対し、時間と、両手の荷物がなければ自分はすぐにでも抱きしめ返していただろうかと、少年は自分に問いかける。そして、気付いてしまったのだ。
結局、自分はファイの事を何も知らないのだという事に。
帰国子女だという事と、父親の事以外何も。それだって直接本人から聞いた訳ではない。単なる噂であり、誰もが知っている事だ。
本人からそういった話を聞いた事がない。いつも適当な所ではぐらかされる。その事実に、ちり、と何かが胸の奥で疼いた。
それが何なのか、少年にはまだ分からなかったけれど。
# # #
マンションからの帰り道。
ブォン、と少年の脇を一台の車が通り過ぎた。もし、この時雨が降っていなければ、少年が傘を差していなければ、その車の立派さにちろりと一瞬でも目を向けていただろう。
そして、その中から二つの瞳が少年を見つめていた事も。
季節は梅雨。
ザァザァと降る雨は止む事を知らないように、毎日毎日天上から地上へとその水滴を降らし続ける。そうして地上の汚いもの全てを洗い流していくのだという。
出会って2ヶ月。何かが少しずつ、変わり始めていた。