あの時の自分はひどく何かに怯えていた。
それを隠すかのように毎日毎日拳を振った。そんな自分を見ないように見られないように。
あの日。両親が死んだあの日から、自分は変わってしまったと。

―――暴力からは何も生まれませんわ。
―――亡くなられたお父上お母上のためにも、貴方は前を向かなくてはなりません。

と、アイツは言う。でも―――



# ウタカタの桜 第5話 #



上がってく?という誘いを断って、ファイがマンションのエントランスに入っていくのをしっかりと確かめると、少年はすぐさまその場から身を翻した。
あんな噂に惑わされている暇などない。少年には確かめたい、いや確かめなければならない事があった。
マンションの角を曲がる。そこで目にした人物に、少年の心臓はどくりと鳴った。

「おい、てめぇ」
「ッ、!」

声を掛けられた男は、すぐに逃げ出した。
おぼつかない足取りで左右に揺れながら、しかしそれでも必死で逃げるその様は、少年からすれば滑稽以外の何物でもない。毎日毎日トレーニングを積んでいる少年にとって、男を捕らえるのは簡単だった。
肩を掴み、無理矢理こちらに向けさせる。振り返ったその目に、ぞくりとした。

「てめぇ…この前の奴だな?」

聞かなくてもすぐに分かった。この男はあの夜の男であった。公園でファイを襲った、あの。
落ち窪んだ目。不健康そうな肌に所々剃り残した髭。まだ若いだろうに、その容貌はかなり年を取って見える。
聞かれた男は、次の瞬間ニタリと笑って言った。

「お前…あの子の恋人か?」
「は?」
「彼氏かって聞いてるんだ」

どうなんだ答えろよ、と何故か偉そうに男は聞く。
瞬間、少年は目の前が赤くなるのを感じた。風呂場で倒れていたファイが、それでも恐怖を笑顔の下に隠したファイが、次々とフラッシュバックしてくる。 そして、考えるよりも先に体が動いていた。
拳を握り、男の顔目掛けてそれを放つ。どくどくと懐かしいあの感覚が蘇る。拳を肉に当てるあの生々しい感触。骨が軋み、それすら快感に変わるような。
殴られた男はそのまま道に倒れ、ヒィともグェともつかない悲鳴を上げた。それでも尚襲いかかろうとしてくる少年に、男は恐怖で凍り付く。
再び上げられた拳を、目を閉じる事など忘れてしまったかのように見つめ、そして。

「黒りん!ダメ!!」

突然、少年の後ろから叫び声が飛んで来た。
反射的に振り向くと、今だ制服姿のファイが肩で息をしながらこちらに向かって走ってくる。そんなファイの姿を認め、男は震える体をひっくり返し、その場から逃げるように走り去った。
咄嗟に追いかけようとする少年の腕に、阻止するかの如くファイは縋り付く。

「っ、離せ!」
「黒りん待って!暴力はダメ!!」
―――――っ!!」

その言葉に、我に返ったかのように少年は動きを止めた。
少年の腕を放さないまま、ファイは男が逃げていった方向を見やる。一体何があったのかよく分からない。けれど先程のあの男。あいつがあの夜の男だと、それはファイにもすぐに分かる事だった。そして。

「ぁ…」
「黒たん…?」

目の前の少年が、ひどく怯えている事も。
自分の拳を見つめその身を震わす少年を、ファイは力の入らない腕を引き、マンションへと連れていった。


# # #


両親が死んだ。
それを聞かされたのは、夏休みに入ってすぐだった。


いつも通り部活を終え、玄関で靴を脱ぐ。ただいま、と声を掛けても返事が無い。ああそういえば今朝出掛けるっつってたな、とさんざんしごかれ疲れ切った頭の一部でそんな事を思い出す。
久しぶりのデートだと、息子が中学生になっても新婚のように仲の良い二人は、それはそれは嬉しそうに語っていた。
そんな両親に思春期特有の反抗は見せても、もちろん心の中ではしっかりと尊敬していた。いつか自分も父親のようになるのだと、そうしてこの道場を継ぐのだと、誰に言われるまでもなくそう思っていた。
汗まみれで汚れきったタオルやTシャツを洗濯籠に入れ、リビングに行く。床に鞄と竹刀袋を置き、何か食べる物はないかとそこら辺を物色する。テーブルの上には、簡単なメモと共に夕食が置いてあった。

『お帰りなさい。おかずは冷蔵庫に入ってるのを暖めてね。9時には帰ります。 母』

可愛らしいピンクの花が散りばめられた少女趣味なメモを読み、とりあえず冷蔵庫に向かう。部活で疲れた自分にとっては大変嬉しく、今日のおかずは豚肉のショウガ焼きだった。しかも山盛りの。中学生にとって肉はご馳走だ。
行儀悪いのを承知で一つだけ肉をつまむ。そうして残りをレンジに入れ、ボタンを押した時だった。

RRRRRRRRRR……

不幸を知らせる機械音が、鳴った。


# # #


少し腫れ上がった拳を手当して、救急箱を置いて戻ってきたファイは、ソファにいる少年を見つめた。
俯いているため、表情はよく分からない。けれど全身から漂ってくる、その、

「黒りん…」

側に寄り、痛々しく包帯が巻かれた少年の手を取る。そっと両手で包むようにすると、少年の肩がぴくりと揺れた。
そして力無き声が聞こえてくる。

「…何で、来た」
「え?」
「何で来たんだ」

先程のあの場面に。
知られないように、見られないようにするつもりだったのに。ファイにだけは見て欲しくは無かった。自分の、あんな姿など。

「だって、何か黒ぽんの様子がおかしかったから…」

だからあの後すぐマンションを抜け出して少年を探したのだと、そう言うファイに少年は自嘲気味に笑った。
何だ結局は見抜かれていたのか。何でもない風を装うのは、想像以上に難しいのだと分かった。
それを以前完璧にやってのけた、ファイの凄さを改めて思い知る。

「……ビックリしたろ、あんなの」
「…何が?」
「あんなトコ、見せるつもりじゃ無かったのに…」

いや、これも言い訳か。隠れて悪を倒す、なんてそんな格好の良いヒーローになりたかった訳じゃない。ただ自分は。
ぎゅ…、と少年の拳を包んでいた両手に力が入る。別に痛くは無いけれど、そんなファイに、少年は視線を向けた。
初めて会った時に綺麗だと思った瞳とぶつかる。

「でも……オレのためにしてくれたんでしょう?」

その、外国の海のような蒼い瞳を細める。慰めるかのように、宥めるかのような言葉に、少年は思わずその手を振り払った。

「違う、そんなんじゃない」
「違わない」
「っ、違うっつってんだろ!俺は、」
「違わないってば」
「俺はただ―――自分のためにやったんだ!!」

自分が、ファイのためとかそうではなく、何よりも自分が嫌だったから。ファイを襲ったあの男を、今はファイは何とも思っていないのかもしれないけどそんなのは関係無くて、ただ、自分が許せなかっただけで。
これでは以前の自分と何ら変わりないではないか。二度としないと、そうあの日誓ったはずなのに。
再びどす黒い感情に飲み込まれそうになり、少年の目は恐怖に見開く。
その時、ふわりと何かが全身を包んだ。

「…でも、それでもオレは嬉しかった」

それが、ファイが自分を抱き締めたのだと、そう少年が気付いたのは一瞬後の事だった。
驚きに固まっている少年に、ファイは語り続ける。まるで幼子をあやすように、優しく。

「紅茶を零した時も、公園の時も倒れた時も、それにさっきも。全部全部、」

オレは、嬉しかったんだよ―――

そう耳元で囁かれ、少年の力が抜ける。ほう、と一つ息を付き、少しだけファイの方へ体重を預けてきた。
それを感じ、ファイは更に強く抱き締めて言う。

「ね……オレに話してみて?黒たんのこと」

それを聞いてどうなるかなんて分からない。けれど話を聞く事は出来る。少年が以前助けてくれたように、自分だって何か力になりたい。
それにホラ、オレってば黒たんより3つ年上だしー、と少しちゃかして言う。そして。

「……ね?」

ファイは腕を離すと、再び少年の手を取った。
包帯が巻かれている、ファイを守るために振るわれたその拳を少年は、今度は払わなかった。


# # #


病院に駆けつけた時には、もう既に遅かった。
ベッドで仲良く並んでいる二人を見て、思わず持ち上げたその腕が力無くだらんとしたのを認めて、ようやくその事実を理解した。
それからだ、おかしくなったのは。


通夜も葬式も済ませ幾日か経ったある日。ふと絡んできた先輩を自分は殴っていた。
いつもだったらそんな事は決してしない。家が道場で、しかも部活動をしている立場上、そんな事は絶対に出来ない。それは、両親が死んでも何ら変わりないはずだったのだ。
更に運悪く、その事が学校側にバレてしまった。季節は夏。大会出場を間近に練習に励んでいた剣道部にとって、それは致命的だった。
結局その夏は出場停止になった。それと同時に、部活も、辞めた。
それからは言わなくても分かる事だ。以前から自分の見てくれだけで絡んでくる輩は多く、相手に不自由はしなかった。毎日毎日、名も知らぬ相手と殴り合った。剣道と違い、相手を痛めつける感触が生々しくリアルに伝わってくる。それがたまらない、等と思わない訳は無かった。
ずぶずぶと、底無し沼のような感情に飲み込まれそうになるのを感じながらも、どうしても抜け出す事が出来なくて。

そんな自分を止めたのは従姉妹のある言葉だった。でも―――


# # #


―――それでも、自分のした事は消えない。どんなに悔やんだって、一生……残るんだ」

そう、己を責め続ける少年は、ファイにはひどく幼く見えた。3つ。たった3つの年の差なのに、今はそれがとても遠い。
ぎゅ…、と少年の手を包む力を強める。
ファイは悲しかった。この、泣きたいのに己のためには泣けない少年の、根っこにある部分を知って。あの時、何故悲しそうな目をしたのか、その答えが分かってしまって。
ぽんぽんと頭を優しく叩く。幼子をあやすかのようなそれを、いつもならすぐに怒って振り払うのに、今日は無かった。
それが嬉しい、だなんて決して思わないけれど。



その日。
薄桃色の花は既に散り、緑の葉を生い茂げらす中、全ての季節が初夏に向け動き出す中で、出会ったばかりの少年達は静かに、ただ静かに身を寄せ合っていた。