思わず持ち上げたその腕は、細くて軽かった。
それは、容赦なくあの日の事を思い出させて。


考えたくは無かった。今は、ただ―――



# ウタカタの桜 第4話 #



RRRRRRRRRR………
その音に目を覚ましたファイは、がばりとその身を起こし、そして。

―――――っ!!」

ブチリと、思わずリビングへと駆け込んだ少年は、コードへと手を伸ばし、反射的にそれを引っ張っていた。
中途半端に鳴り止んだその音に、ファイは何事かと思ったが、ほんの数瞬後にリビングから戻ってきた少年が持つそれに驚いた。

「それっ、」
「…そんな顔すんなら、抜いときゃいいだろ」

少年は電話機を持っていた。無惨にも引き抜かれたコードがぶらぶらと垂れ下がっている。少年はそれをぼす、とベッドの端に投げた。電気を通さないただのモノになったそれを、ファイは見つめる。
嫌だった。嫌だと思ったのだあの瞬間。呼び出し音を聞いた瞬間の、あの表情。恐怖、絶望、色々な感情が混ざったその顔を見るのが。
ただでさえショックを受けている状態で、これ以上ファイにあんな顔をさせたくはないと、少年はそう思ったのだ。

「体、平気か?風呂場で倒れてた」
「あ…うん」

未だこの状況を理解しきれていないという顔をして、ファイはぎゅ、と自分の服を握る。

「黒たんが、着せてくれたの…?」
「……この状況で俺以外の誰がいる」

あはーそっかぁと、いつもよりは弱いけれど、それでも笑顔を浮かべたファイに、少年はやっと安堵の息を漏らした。
そして水持ってくるという少年に、プリン食べたいーとファイは言う。それに対し、待ってろ、とただ一言告げ、少年はキッチンへ入っていった。


# # #


水を飲み、プリンを食べ終えたファイは、ぽつりぽつりと事の経緯を少年に話し始めた。

「1ヶ月くらい前から、かな…。朝とか帰りとか、誰かにつけられてる気がして……まさかとは思ったんだけどね」

そんな夜、ふらりと一人で外に出てしまった。
それが間違いだったと気付いた時には、既に遅かった。

「ビックリしたよー。急に後ろからがばり、だもの。……だから、」

だから、黒たんが助けてくれて良かった、ありがとう、と生気を取り戻した蒼い瞳を細めてファイは言う。
別に何でもねぇよと少年はそうぶっきらぼうに返すが、次の瞬間、ふと思い当たりその口を開いた。

―――俺と一緒に帰ろうっつってたのは、そのためか?」

そう問いかけけた少年に、ファイは言いにくそうに体を揺らすと。

「う、ん―――それもあるー……ケド、」

でもね、と早口でファイは付け足す。
何だと思った。要は用心棒代わりだったのか。一瞬でも喜んでしまった自分を恨めしく思う。
結局誰でも良かったんじゃねぇかと、そう少年が心の中で呟くと、

「誰でも良かった訳じゃないよー。その…黒たんだったから、」

黒たんだったから一緒に帰って欲しいと思ったし、他の人じゃ嫌だったと。
そう少年の心を読んだかのように小さく呟かれた言葉に、どくんと心臓が一つ鳴った。


# # #


結局その夜はそのまま泊まった。
服も濡れているし、何しろ時間が遅かった。余裕で12時を過ぎている事に2人が気付いたのは、しばらく経ってからだった。
このまま泊まって、明日の朝早く帰ればいいんじゃない?とそうにこやかに言うファイに、しばし逡巡の後、少年はしかたなくその提案を飲み込んだ。


# # #


「おはよー!」
「……おう」

いつもと変わらない春の朝。
いつものように玄関に鍵を掛け、マンションのエントランスをくぐる。しかし、そんなファイの朝の風景が少しだけ変わったのは、最近の事だ。
エントランスの前には、一人の少年が立っていた。
無愛想な顔をして無愛想に挨拶をする。「おう」のどこが挨拶なのかは知れないが、ファイにとって、それはちゃんとした挨拶だった。その言葉にファイは嬉しそうに笑みを深める。
そして少年の側まで走り寄った。


少年が泊まったあの日。正確には、ファイが暴漢に襲われ、それを少年が助けたあの日から、2人は学校へ行きも帰りも一緒に行く事になった。なった、といっても別にどちらかが言い出した事ではない。
次の日、朝早く家を出ていったはずの少年が、ファイが出掛けようとエントランスを出ると何故かいたのだ。ムスッとした表情で突っ立っている少年に、初めはファイも驚いた。
しかし心配してくれているのだと、今では分かる。例えそれが義務的な正義感からだったとしても、ファイは嬉しかった。
帰りも帰りで、いつものようにファイが少年のクラスまで迎えに行く。すると今度は少年は逃げるような事はせず、大人しくファイに付いて来た。
次の日も次の日も同じ事が続いた。これで、今日で5日目だ。

「あ、待ってゴミ捨てるー」

行くぞ、とも何とも言わないまま、ファイの姿を認め少年は歩き出す。
そんな少年に声を掛け、言葉通りゴミ捨て場へ向かったファイは、よいしょと持っていた袋を投げ捨てる。そして今日は可燃の日〜と歌うように少年の元へ駆け寄った。

「お互い一人暮らしだと、こういうの大変だよねー」
「…………。まぁ、俺は隣に従姉妹たちがいるから」

ファイの言葉に、長い沈黙の後少年はそう言った。
この5日間で隣にいる、ぶっきらぼうな後輩について分かった事が幾つかある。それは、少年はファイと同じ一人暮らしなのだという事、隣には従姉妹が2人住んでおり、何かと世話して貰っているという事(というか一方的に世話を焼かれているらしい)、甘い物は余り…というか全く好きではないという事。そして昔、剣道をやっていたという事。
この、極端に言葉が少ない少年にここまでいろいろと聞き出せたのは、一重にファイの努力の賜物であろう。辛抱強く粘り強く少年の言葉を待つ。そうしてくると見えてくるのだ、少年が無口なのではなく、単に照れ屋で不器用なだけだという事が。
じぃっと少年を見つめる。その視線を感じ、何だと目線を合わせずに少年は返した。

「んー?いやぁ勿体ないなぁって」
「何が」
「この身体ー」

ファイは少年の前にくるり、と身を翻す。自然と少年の足は止まった。

「この腕!肩!胸元!そしてお腹!!」
「…………………………………オイ、」

手を伸ばし、ファイは少年の身体をさわさわと触った。通学路でいきなり公開逆?セクハラをされ、少年の顔が怒気に染まる。
そんな少年にもけろりとした顔でファイは、

「ホント、どっかの部活に入ればいいのにー」

勿体ないと、もう一度言い口を尖らせる。
実際、少年はいくつかの部活に勧誘を受けていた。必ず部活動をしなければならないという校則が無いこの学校では、少年のような生徒は特に珍しくは無い。現に、目の前のファイも何処の部にも所属してはいなかった。
しかし、少年の高校1年生にしては逞しいその肩や腕。背だって他と比べてかなり高い。そのまま野放しにしておくなんて勿体無い是非うちの部活にと、そう情熱的に誘ってくる先輩達に、少年はその申し出をことごとく断っていた。
その理由は誰にも分からない。聞かれても少年は適当にはぐらかすのだという。
早くも少年は運動部内で注目の的となった。すなわち、どの部が一番早く落とせるかと。

「……部活はやろうって気になんねんだよ」

ファイの腕を取り、少年はそう言った。
その目に何処か悲しげなものを見つけてしまい、ファイはそれ以上何も言えなくなった。

悲しげ?後悔?何に対して?
―――自分、に?

何だか違う少年の一面を覗いてしまったような気がして、ファイはふるりと頭を振った。

「それよりもお前、」
「え?」

と、珍しく少年から話を振ってきた。
しかし何の事だか分からずファイは首を傾げる。

「…いや、いい。何でもない」

そう言い、少年は掴んでいた腕を放し先に歩いていく。
何が言いたかったのだろうとファイは思ったけれど、聞こえてきたチャイムに、その疑問は掻き消された。


# # #


あれからまた数日が過ぎた。
少々長引いたHRを終え、教室の外で待っていたファイと今日も一緒に帰る。今まで避け続けていた少年が、ある日を境に学校の『高嶺の花』ことファイ・D・フローライトと一緒に登下校するようになった、この事は既に学校中に広まっている。
ファイに想いを寄せていた生徒達は悔しさで臍を噛み、何もアプローチ出来ない自分を棚に上げて、裏でこっそり黒鋼少年を呪っているとか何とか。そんな、もし真実だとしたら末恐ろしい噂など、少年の耳に届いているはずもない。
帰り道、ファイはそんな事を面白可笑しく話した。

「ね、知ってるー?噂になっちゃってるんだってオレ達」

そう嬉しそうに話すファイは、いつからだろう、少年の前で性別を偽らなくなった。自分の事を『オレ』と呼び、口調もどこか少年らしくなる。
女子高生の格好をして『オレ』と話すファイは、これが他の誰かだったのであれば奇妙に感じたのであろうけれど、ファイに至ってはさほど違和感がないのは何故だろう。
自分の前でだけ自分を曝け出してくれている―――そんな事実に、少年は少し優越感を感じていたのだが、勿論そんな事はこの時はまだ気付かなかった。

「あ?噂?」
「つまりー、『出来てる』って事ー」
「ばっ、」

っかじゃねーの!と、ファイの言葉を瞬時に理解した少年は、次の瞬間その顔を真っ赤に染めて叫んだ。
そんな少年の反応に、ファイは可笑しくて堪らないという風に大声で笑うと、

「あははーだから噂だってバ」

黒ぽん冗談通じないんだからー、とバカにしているような口調で(もちろん少年の被害妄想だ)、ファイは鞄をくるくる回しながら歩いていく。
出来ている、だなんて間違いにも程がある。自分はあの現場にたまたま居合わせてしまったからこうしている訳で―――いや待てよ。登下校を共にする、この行為は何も知らない奴から見れば、その……付き合っている、ように見えるのだろうか。
という考えに至り、少年は一瞬くらりと目眩を覚えた。男のコイツと何処をどうしたら付き合えるってんだと内心文句を言ったが、悲しいかな、そんな少年の心は誰にも分からなかった。しかも。

「…でも、オレはちょっと嬉しいよー。黒たんと噂になって」

だなんて。
その白い頬を少し染めてをそう言うファイに、性別はともかくやっぱり可愛い綺麗だと、そんな事を少年が思ったかどうかは、少年の他に神のみが知り得るものだった。

「やめろ、気色悪い」
「あは、やっぱりー?」

そう言うと思ったーと、そう言いながらファイは少しだけ歩みを速める。
たたたと軽やかに少年の前に移動したファイは、冗談だよ、と一言告げ。そして。

「でも本気だよ?」

くるりと振り向き、そんな事を言った。
それに対してどっちだよと、少年の怒声が飛ぶのは、この後すぐの事である。



入学して、もう1ヶ月が経とうとしていた。