「ありゃー、見られちゃった」
と、そうあっけらかんと言う少女?は、いつの間にか鳴り止んだ携帯をぽんと投げ、さほど、というか全く気にした様子も無く、着替えてくるーと一言言い残し、自室へと下がっていった。
残された少年は一人、その場で立ち尽くすしか無かった。
入学して、2日目の事だった。
# ウタカタの桜 第3話 #
まず一目見て驚くのは、その容姿だ。
雪のように白い肌に、甘く輝く金の髪。晴れ渡った空のような、奥底まで澄み渡った海のような蒼い瞳に、さくら色の唇。女子にしてはスラリと高い身長と相まって、まるでモデルのようだ。成績も学年トップクラスで、運動も良く出来る。
容姿端麗頭脳明晰運動神経抜群と3拍子揃った彼女は、しかしそれを鼻にかける事など一切しない。誰にでも優しく、誰にでも平等に接するその性格と、常に浮かべている柔和な笑みから、この学校の『高嶺の花』として全男子から憧れられている。
そんな彼女に関する情報は少ない。帰国子女で、父親が大企業の社長だという事以外は謎のままである。それがかえってミステリアスだと、彼女の人気を更に高める要因になっているのではあるが。
勿論、嘘か本当か良く分からない噂も多々ある。やれ実はマフィアの娘だとか母親はハリウッド女優だとか親父と腕組んで歩いていたとか超高級マンションに一人住まいをしているだとか。自分の事は何も語らない彼女は、そんな噂をいつも笑顔でやり過ごしていた。
そして最近、また新たな噂が学校中に広まりつつあった。
それは。
# # #
少年は急いでいた。
鍛え上げた両足を前後に素早く動かし、ただ前だけを見つめずんずんと。短く刈り上げた黒髪から覗く、両の耳を今すぐにでも閉じたい衝動に耐えながら。
え、何でって?そんなもの。
「待ってよ〜黒鋼くん!」
そう背後から呼ぶのは、この学校の『高嶺の花』ことファイ・D・フローライトという少女だ。
指定制服の深緑色のブレザーを纏い、同色のスカートをひらひらと翻しながら少年を追いかけるその姿は、4月に入ってからよく見られる光景となっていた。そしてそれを思い切り避ける少年も。
このファイという少女に想いを寄せている男子生徒からすれば、少年のこの愚行は死に値するものである。こんな綺麗な女子に毎日毎日言い寄られているのにそれを無視するなど、全くもって理解不能だと。
まぁ、この少年には無視するだけのちゃんとした理由があるのだが。
「ねぇ黒鋼くんってバー」
「うるせぇ!呼ぶんじゃねぇ!!」
耐えきれず少年が振り返って叫んだ。その余りの大声に、廊下にいた生徒全員が驚いて二人を見つめる。
その大量の視線に少年は、あ…、と我に返った。が、しかしどうして、目の前の少女は全く気にせず嬉しそうにへにゃりと笑うと、
「じゃあ、黒りん」
「は?」
「『黒鋼』がそんなに嫌なら、黒りんにするねー」
あ、でも黒たんとか黒ぽんとかも可愛いねーと、心から楽しそうに一人言を言う少女に、黒りんと呼ばれた少年は、
「あっ、また逃げるのー?」
無言でその場から逃げた。
逃げた、だなんて少年のプライドからすれば全く失礼な表現ではあるが、それ以外に言いようがない。
もう待ってよーぅと聞こえてくる声に「大丈夫だ耐えろ俺」という言葉を何百回と心の中で唱えながら、少年はあの日の事を思い出していた。
そうあの日。今から2週間程前の事だ。
出会ってまだ2日目の少年に一緒に帰ろうと持ちかけ、しかも部屋にまで招待した少女。嬉々としてお茶を勧める少女が誤ってそれを零してしまい、シャワーを浴び戻って来たかと思えば、何故かバスタオル一枚だった。それに驚き、思わず少女を突き放してしまった少年がその時見たものは―――。
あの後の事を思い出し、少年の顔が一層険しくなる。そこにはハッキリと『嫌悪』の二文字が浮かんでいた。誰に対しての嫌悪かなんて、自分以外の誰だというのか。
一時でも可愛いだなんて思ってしまった自分に吐き気がする。帰りを誘ってくれた時も部屋に上げてくれた時も、そりゃ緊張はしたけれど、やっぱり心のどこかでは嬉しいと思っていたのに。
なのに。
―――――――――ガンッ!!
当たりたくない事実にブチ当たってしまい、少年は思わず下駄箱の扉を殴った。手から伝わる振動と痛みは全く効かなかったが、それでも心はズキズキと呻いた。
まさか、『男』だったなんて―――。
黒鋼少年15歳。
青い春の何たるかをまだ知らない少年は、この後その意味をとくと味わう事になるのだが、この時はまだ、想像もしていなかった。
# # #
『一緒に帰ろ』
この言葉は、初めて帰ったあの日からずっと言われ続けていたものだった。
今日も今日とてその申し出を一方的に断った(というか全力で逃げた)少年は、その夜トレーニングとしてランニングをしていた。
春先といっても、夜になれば多少は冷える。規則正しく息を吐き、決して無理をせず、しかしギリギリまで自分の力と見合った走り方をする少年は、明らかに慣れている。何かしらスポーツをやった事がある、と玄人が見れば一発で分かるものだった。
公園の自販機でコーヒーを買う。夜だからだろう、缶が落ちてくる音がやけに響いた。
連日のあのファイとかいう少女(いやいや奴は男だ)の攻撃に、いい加減疲れてしまっている。女に(いやだから奴は男)言い寄られた事は無い訳では無いけれど、さすがにここまでは無かった。2週間、きっちり2週間、毎日毎日あの少女は(いやだから)HRが終わると同時に少年のクラスのドアを開ける。黒鋼くん一緒に帰ろ、だなんて嬉しそうにそう言う少女(いや)に、少年を含めてクラス中が驚く。
何で自分なのだろう、あの見た目だったら言い寄ってくる奴は沢山いるだろうに。
男だけどな、とそう心の中で呟いて、缶の中身をぐいと飲み干した。そして空のそれを捨てようとゴミ箱へ足を向ける。
その時だった。
『っ、―――いやっ!!』
突然暗がりから聞こえてきた悲鳴に、少年は固まった。
一瞬聞き間違いか?とも思ったけれど、続いて誰かと誰かが争う声がし、それが幻聴では無い事が知れた。
辺りを見回すと、どうやらそれは少年の背後から聞こえてくるものだった。
「やっ…め、!」
一方は明らかに抵抗していた。
まだ15歳の少年にとって、その光景は信じ難いものであった。暗くて良くは見えないがおそらく男女であろう、一人がもう一人を押し倒している。強姦―――という言葉はすぐには浮かんで来なかった。
しかし、その一人の姿を認めた瞬間、少年の体は動いていた。
「ぃてっ!!」
カランカラン…、と空き缶の高い音が響く。
振り返ると、そこにはほとんど闇に溶け込んでしまっている中、浮かぶ2つの紅い瞳が睨んでいた。現場を目撃された男は一瞬びくりと体を震わし、それと同時に缶を投げた少年は走り寄る。
途端、男は弾かれたかのようにその場から逃げ出した。
「うわぁあっ!」
「おい!」
「待って!!」
と、3人の声がほぼ同時に重なった。
咄嗟に追いかけようした少年の足が止まり、その隙に男は公園を出て夜の道を走り去っていく。そんな男の背を目で追い、ちっ、と舌打ちをし少年は振り返った。
「なんで止めんだ!」
「あれ、こんな状態の『女の子』を放って置く程、君はヒドイ奴だっけー?」
ね、黒たん?とそう笑顔で告げる人物は、何を隠そう少年のよく知る人物であった。
ファイ・D・フローライト。
高校に入学してから毎日のように嫌でも目にするその名の人物は、乱れた衣服をひょいと直す。その余りにも平然とした様子に少年は、
「…だ、大丈夫か?」
「ぴんぽーん、それが正解」
こういう時はまず優しい言葉を掛けるんだよーと、そう言ってファイは立ち上がる。ぽんぽんと衣服に付いた泥を叩き落とし、一度腕を回した。
うん良かった痛くないと笑顔でそう言うファイは、驚きか呆れか、一向に固まったまま動かない少年をちろりと見ると、
「こういう時、イイ男は自分の服を肩にそっと優しく掛けてくれるんだよねー。そんで家まで送ってくれるの」
君はしてくれないの?と言わんばかりの視線を投げかけてくるファイに、一瞬、心配して損したと、少年の頭に血が上った。
# # #
そうしてそれから今現在。
ファイに言われてしかたなく、しかたなく自分のジャージを貸してやり、マンションまで送っていった。途中、プリンが食べたいと言うのでコンビニにも寄った。意味不明だ。
やっぱり外見が日本人離れした奴は以下略。なんて事を思いつつ、少年はリビングで一人耽っていた。
ファイは今シャワーを浴びている。当然だろう、公園の土の上であれだけ暴れたのだ。服だけでなく、顔や髪にも泥が付着していた。それを拭こうともせず、すぐに茶を煎れようとしたファイを、再び無理矢理風呂場へと行かせたのが一時間程前だ。
ふぅ、と息を吐く。初めてああいう現場に立ち会った事で、少年はひどく狼狽していた。男が力任せに女を襲うなど、そんなのドラマか何かの中だけかと思っていたのに。
もっと驚くのはファイの言動だ。全く怖くないですよーと言わんばかりの平然としたあの態度。襲われそうになったのは自分なのに、まるで他人事のようなそれに疑問を感じ得ない。
まさか慣れているのか、なんて、そんなくだらない思考を一瞬で消し、少年はリビングを見渡した。
前回来た時は緊張のため気付かなかったが、高校生の一人暮らしにしては広すぎるし、家具一つとっても高級そうな部屋だ。そういえば父親が社長だったっけと思い納得しかけたが、ならばその父親と住んでいないのは何故だろう。
自分のように両親共に亡くなってしかたなく、という訳でもあるまいに。社長令嬢というのは凡人には分からない何かがあるのだろうか。
そこで、少年は2週間前の事を思い出す。そういえばあの電話。しつこく掛かってきたそれは、今夜はまだ無い。この2週間で解決したのだろうかと少年は思った。
『電話』―――それは少年にはとても暗いものを思い出させるもので、ぎゅっ、と人知れず少年は眉間の皺を深めた。
# # #
短針が11の数字を差す。話す相手がいないと、時計の音がひどく大きく聞こえる。
コッチコッチと一秒一秒刻むその音を聞きながら、少年は思った。長すぎると。
視線を風呂場へ投げる。少女がそこへ入ってから、既に2時間は経とうとしていた。よく女の風呂は長いと言うが、それにしても長すぎるだろう。
「おい、」
風呂場の外から呼びかける。しかしそれに応えたのはシャワーが流れる音だけだった。
一瞬ひやり、と少年の背に汗が走る。
「開けるぞ!」
思わずそう言って扉を開けていた。
磨りガラスのドアは、湯気で曇って中の様子は分からない。しかし明らかに異常な空気が流れていた。
反射的に少年は風呂場のドアも開ける。するとそこには、
「おいっ!大丈夫か!?」
「―――ん、」
そこには、頭から湯を被り倒れているファイがいた。シャアァァ…、と流れ続けるシャワーを止める事もせず、全身の力を床に吸い取られたかのようにだらんとしている。
少年は、濡れるのも構わずにファイの体を持ち上げた。その時その余りの軽さに、一瞬、あの時の光景が過ぎり少年の思考は停止する。
しかしそれを瞬間的に振り払い、少年はまずシャワーを止めた。そして大きめのバスタオルを持ってくるとファイの体を包む。
その際、平らな胸元が目に入り、ああそういえばコイツ男だったと思ったけれど、今の状況では些細な事だった。
# # #
体を拭き適当に服を着せ、ベッドへ寝かせる。
寄せられた眉は苦しそうで、いつもにこやかな笑みを浮かべているその表情からは想像も出来ない。少年は自分もタオルで拭きながら、ベッドの脇へ座り込んだ。
どうして倒れていたのだろう、なんて疑問は無駄だった。
バカだと思った。ファイも自分も。全く怖くない、なんて事はあるはず無いのに。それに気付かなかった自分も、それを笑顔で包み隠そうとしたファイも、そして何より、あの男も。
今更ながらに怒りが込み上げて来た。弱い者を力でねじ伏せようとする、それは少年が最も忌み嫌う行為だ。自分と同等か、それ以上の力を持っている相手と、了解の上でなら分かるし自分にも経験はある。
けれどファイは違う。例え男だとしても外見は女にしか見えない。何の抵抗力も持たないファイに、あの男は。
「…ん、」
と、ファイが寝返りを打つ。ただでさえ白い肌を青白くし、完全に乾いていない髪を張り付けた額は汗を掻いていた。
それを拭おうと少年がタオルを伸ばし掛けた、その時。
「…お、とうさ」
RRRRRRRRRR………
リビングの向こうで、『お父さん』という言葉と共に、あの電話が鳴った。