あの女の名は『ファイ・D・フローライト』と言うのだと、そう知ったのは、入学した次の日だった。
なーにが『桜の精』だふざけやがってしかも何だその名前はと、クラスメートが話しているのを遠くで聞きながら、少年は内心毒付いた。
そして昨日の鮮烈?な出会いを思い出し、微かに目元を染める。

―――さくらのせい、だよ。

綺麗な蒼い瞳をにこやかに細めてそう言った少女。風になびく金の髪も、光に反射する白い肌もどこか人間離れしていた。

『ファイ・D・フローライト』

この学園の3年生だという彼女は、容姿端麗頭脳明晰、おまけに帰国子女であり、も一つおまけに父親は某大企業の社長らしい。
そんな、どこの漫画だと言わんばかりの肩書きを持つ彼女に、少年は窓の外を流れる桜を見て、ちっ、と舌打ちをした。



# ウタカタの桜 第2話 #



薄桃色の中に浮かぶ金を見た。
それを認め、少年の足は自然と速くなる。近付く寸前、そんな自分に気付いたが、今更戻れる訳も無い。
少年の気配に気付いたのか、その金がくるりと振り向いた。

「あれー、君は昨日の新入生くん」
「……」

何と答えて良いか分からず押し黙った少年に、少女はさほど気にした様子も無く、どうしたのー?と聞いてきた。どうしたもこうしたも、この時間にここに来たという事は、目的は一つしか無いだろうに。
何も答えない少年に、少女はふわりとその髪を揺らし。

「あ、もしかして今帰るとこー?じゃあ一緒だね」

などと、その白く細い首をちょこんと傾げて言ってくるものだから、ちくしょうやっぱり可愛いと、心のどこかで思った―――なんて事を少年は瞬殺した。
ちらりと少女の頭上を見上げる。そこには昨日と何ら変わらず、薄桃色の花をちらちらと付けた桜の木が一本植わっていた。一目見て、そんなに立派なものでは無い事が伺える。
こんな大木でも、ましてや花を大量に付けている訳でもないものを見て何が楽しいのかと一瞬思ったけれど、ようやく少年の口から出た言葉は、そんなものだった。

「…昨日も、見てたのかコレ」
「え?ああ、この桜のこと?」

と、少年と同じように少女も上を見上げる。
そう、昨日のあの出会い。忘れたくても忘れられない、目に焼き付いて離れない。薄桃色の花弁を何枚も頭に乗せ、蹲ってぐーすか寝ていたという少女。この容姿が無くたって、印象深いにも程があるだろう。
そんな事を内心呟き、少年はちろりと少女を見やる。見上げている空色の瞳に映るのは、薄桃色の花。その一瞬、つと細められ、そこに浮かんだ感情に少年はぴくりと反応したけれど、次の瞬間、こちらを向いた瞳に思わず顔ごと背けてしまった。

「あ、何で逸らすのー?」
「な、何でって…」

何でなのだろう、よく分からない。
また黙ってしまった少年を、少女はじっと見つめる。浅黒い頬に少女の視線をもろに感じてしまって、抑えようとしても容赦無く少年の心臓は高鳴った。
そしてまた、少年の心臓を打ち鳴らす出来事が。

「ね、お願いがあるんだけど」
「は?」
「一緒に……帰ってくれない?」

この花と同じ色をした唇から漏れた言葉に、何と言ってOKしたのか、残念な事に、少年の脳に記憶される事は無かった。


# # #


そうしてそれから今現在。何で俺はここにいるんだろうと、少年は心から思っていた。
先程までは良かったのだ。いや良くは無いのだけれどいやいや今よりはましだろう、などとぐるぐる少年が考え込んでいる前で、少女は煎れたばかりの紅茶を、それはそれは慣れた手つきで注いでいた。
少女が一人暮らしをしているのだというマンションの前まで来ると、じゃあ俺はこれでと、すぐさまその場から去ろうとした少年の、高校一年生にしては逞しいその腕を掴み、少女が言った言葉は。

「これダージリンなんだけどねー。春摘みの茶葉でヨーロッパで」

いや、そんな事言われても自分には何が何だか分からないのだが。
そんな少年はお構いなしに、少女はテーブルへカップや砂糖やクッキーやらを並べている。砂糖は何杯?あ、男の子だからノーシュガーかな?なんて。ウキウキという音が聞こえてきそうな声色でそう言う少女は、相変わらず黙ったままの少年に顔を近付け、

「おーい、一年生くん?」
「…あ?」
「黒鋼、くん?」

にこり。
そう目の前で言われ、少年は大げさだと言わんばかりに身を引いた。まるでバネのようなその動作に、少女はクスリと笑うと、

「そんなに緊張しなくていいのにー。さ、お茶飲んで。冷めちゃう」
「あ、ああ…」
―――ね、気にならないの?」
「?何が、」
「どうして君の名前を知っているのか」

全く読めない笑顔で、そう少女は問いかける。
そうだ、昨日もおかしいと思ったのだ。この、目の前にいる金髪で蒼い瞳を持つ少女とは昨日が初対面だ。しかも入学式中外で居眠りをしていたという少女に、自分の名を知る機会は無かったはずである。
何故だと瞳だけでそう問うと、その笑みを深めて少女は、

「な・い・しょ」

そう言った。
……今のは何だ、と少年は一瞬頭痛がしたが、そこで敢えて言及しないでおいた。
飲み込んだ紅茶は勿論味なんてしない。先程言われた通り、自分は緊張しているのだろう。多分、いや絶対。
だって普通、良く知りもしない男を家に上げるだろうか。仮にも女が。しかも一人暮らしなら尚更に。
分からない。昨日からこの金髪の少女の行動が全く読めない。やはり日本人離れした外見を持つ人間は、行動も日本人離れしているのだろうか。

「お茶、お代わりいる?」

気が付くと、カップの中身は空になっていた。いつの間に飲み干したのだろう、少年は少女に促されるままにもう一杯所望した。
そしてクスリと笑って少女がポットを持ち上げる。その時。

愉快で軽快なメロディが、少女の学生鞄から聞こえてきた。

その音に一瞬ぴくりと動きを止めたが、しかしすぐに鳴り止んだその音に、少女は小さく息を吐く。出なくて良いのかと少年は思ったけれど、それよりも少女の反応の方が気になってしまった。
そして少年のカップに注ごうと、少女は再びポットを持ち上げる。すると。

RRRRRRRRR……

今度は携帯では無く固定電話が鳴った。FAX付きの高機能なそれは、綺麗なコンピュータ音を部屋中に響かせ、

―――ガシャンッ!!

電話の音に気を取られていた少年は、その物音に驚いた。
反射的に目をやると、少女はポットから手を離し、固まっていて、

「ぁつっ…!」
「っ、おい!」

落とした拍子にポットから零れた紅茶を、少女はもろに被ってしまった。
まだ随分と量があっただろう、その証拠に深緑色のブレザーとスカートは、広い範囲でその色に更に深みを増した。

「あ、ちゃー…やっちゃったねぇ」
「っ、それよりも風呂だ風呂!」

風呂どこだ!?と大声を出す少年に、少女は一瞬ぱちくりと目を大きく開くと、

「あはーこんなの拭いとけば大丈夫だよー」

次の瞬間へにゃりと笑った。
それに少年は目を見張る。大丈夫な訳が無い。まだ煎れてからそんなに時間は経っていない。ということは熱湯に近い温度があったということだ。
よくそんなの被って平気で笑っていられるなと、変な所で感心してしまったが、今はそれ所では無い。

「わっ!」
「風呂、どこだっつってんだ!」

少女の白い手を掴み、風呂場へと連れて行く。
凡人の自分にさえ一目見て高級だと知れたこのマンションは、通常のそれよりもかなり広い。しかし広くても、マンションの間取りはだいたい共通しているものだ。
適当にドアを開け、一発で風呂場へ行き当たる。映画に出てくるホテルのような浴室へ、そのまま少女を押し込んだ。そして半透明の磨りガラスの扉を乱暴に閉め、廊下へ飛び出す。

「ねー、ちょっとぉ?」
「いいから水浴びろ!」
「えー?」

風呂場のドアも閉め、2枚の扉を隔てて聞こえて来る声に大声で返す。
その不満そうな声は、何故自分が風呂場へと連れて来られたのかを分かっていないようだった。瞬間ぷち、と少年の中で何かが切れる。

「阿呆!跡になったらどうすんだ!!」

そう一層大きな声で叫ぶと、一瞬扉の向こうで少女が息を呑む音がした。
そしてしばらくして聞こえてきたシャワーの音に、少年ははぁと息を吐いたのだった。


# # #


リビングへ戻る。
ポットやカップが散乱していたので、とりあえずキッチンから勝手に布巾やらタオルやらを拝借し、テーブルの上を片付けた。下のカーペットに染みこんでしまっているのはどうしようかと思ったけれど、まああの少女が戻って来てからで良いかと、一応形だけは拭いておく。
それが済んでしまえばやる事が無くなり、そのまま帰っても良かったのだが、何故かそれは憚れた。
先程の少女のあの顔。電話の呼び出し音が鳴った瞬間に見せたあの表情が、何故か脳裏に焼き付いて離れなかった。怯え、というのが正しいのだろうか。あの一瞬だけの感情。その白い顔を一層白くし、大して重くもないポットを落としてしまう程の。
そう言えば昨日の去り際も携帯を見ていたっけ、なんて、今更気付いたとしてもどうしようもない事を思い出す。その時だった。

RRRRRRRR……

また、あの機械音が鳴り響いた。家人がいない状態でまさかそれに出られる訳も無く、どうしようかと少年が逡巡している間に音は止まった。

そして、愉快で軽快なあのメロディが。

今度は、少女の携帯電話が鳴り響いた。
こんな間を空けずに何度も掛かってくるなんて、事情は全く知らないが本当に出なくて良いのかと思ってしまう。もし、緊急の用事であったら?
大企業の社長だという少女の父親。母親の事は分からないけれど、もし本当にその父親からの急用だとしたら……。 急用ならばまだいい。もし、最悪の場合であったら―――
いけない、と思いながらも手を伸ばす。焦げ茶色の鞄から取り出したそれは、少女の瞳と同じ淡いブルーだった。そしてちかちかと光る、赤いライトの側に見える着信源の名を確認しようとした、その時。

「っ、見ないでっ…!!」

突然、後ろから白く細い腕が伸びて来たかと思えば、ブルーのそれを奪われた。
思わず振り返った少年の瞳に映ったものは、

「なっ、」
「見た!?」

ねぇ見たの!?とそう問いかけてくる少女が身に纏っているのは、一枚の白いバスタオルだった。 まだ高校に上がりたての少年にはちょっと、いや、かなり刺激が強すぎる。
止まった思考のまま首を横に振ると、少女は安心したようにホッと息を吐いた。
そして今だ鳴り続けている電話を見つめる。その金色で綺麗に整えられた眉を歪め、恐怖とも嫌悪ともどちらにもとれるような表情をした少女は、ろくに拭きもせず出てきたのだろう、その白い肌も金の髪もまだ濡れている。
ぽたりぽたりと、肌を伝って透明な雫がいくつもカーペットへと染み込んでいった。

「……あの、出たほ、」
「ヤだ。絶対にイヤ」

死んでもイヤ、などと、そう頑なに言う少女は、くるりと少年へ向き、

「勝手に見ようとしたバツだよ。ココ、押して」

にこり。
白い肌に白いバスタオルのまま、少女がその濡れた指で指し示した場所は、

「ちょっ…押せるわけ」
「いーから早くー!」

その場所は電源ボタンだった。
相変わらず画面は手で隠したまま電話を近づけてくる少女に、少年は抵抗した。そんな他人の事情に首突っ込むような真似などしたくはない。この少女にどんな事情があるにしろ、どうして自分がそんな事をしなくてはならないのか。
それでも尚せがんでくる少女の首筋が目に入る。濡れて肌に張り付いた金の髪を、気にする事無く惜しげも無く晒している、その、

「っ―――!!」

どん、と少女を突き飛ばした。目に毒だと、心臓がばくばく鳴ってうるさい。そんな、あんな白い肌を目の前にして平常心でいられるはずが、無い。
簡単に押された少女は、そのままカーペットに座り込む。尻を強かにぶつけたのだろう、イタ…、という小さな声がした。その声に今更ながら自分がした事に気付き、少年は慌てる。 そして少女へと視線を降ろした時だった。
その、肌を覆っているバスタオルが、押された時の衝撃かはらりと、隠されていた少女の胸元を露わにする。

「あ、」
「あ、」

そして、そこに現れた白い肌に、少年の思考は、

「ありゃー、見られちゃった」

なんて事も無げに言う人物に、ぷつんと少年の思考はそこで途切れた。



電話はいつの間にか鳴り止んでいた。