ドアを開ける。靴を脱ぐのもそこそこに、部屋に入ると敷きっ放しの布団に倒れるように転がった。
目の前には、いつ脱ぎ散らかしたのか分からない服の山がある。そろそろ片付けないとあの口うるさい従姉妹達にまた文句を言われるなと、思考の止まった頭の隅でぼんやりと考えた。
そうだ、服。まず洗濯するものとしないものを分けて、それからクローゼットにしまって…………ああ、面倒くさい。
など考えながら、よろりと立ち上がる。たかだか数百メートルの道を歩いて来ただけなのに、体は鉛のように重かった。
服を洗濯機に突っ込みボタンを押す。洗剤が切れかけていたので、箱をひっくり返して全部入れた。すぐにゴウンゴウン……、と音を立て服が回り出す。
それを確認し、ずるずると壁に背を預け座り込んだ。だらんと力の抜けた手の先に一本の短い黒髪が落ちているのが見え、それを指先で弄ぶ。

サヨナラ、と言った。空色の瞳を真っ直ぐ突きつけ、嘲る様な笑みでそう言った。
あの顔が、頭から離れない。

ファイの過去は、想像していたよりも遥かに越える形で少年の身に降りかかってきた。今だにあれは夢だったのではないかと、そう思える程に強烈で、そして残酷だった。
ずっと嫌だった。ファイが自分の話をしてくれない事が嫌で、ファイにとって自分が他人と同等の位置にいるのが嫌で、知れば、この訳の分からない燻った感情も消え去ると思っていた。思っていたのに。
ふと、腰辺りに違和感を覚えそろそろと手を伸ばす。制服のポケットから出てきたのは、くしゃくしゃになった白い紙だった。いつの間に持って帰ってきたのだろうそれは、ファイの父親があの時床に落としていった名刺だった。
ふいに、視界が滲んだ。ファイの過去を知ったのだという実感が、急激に湧き上がってきた。あの出来事が嘘ではない事を証明する紙切れが、再び少年に現実を突きつける。
信じられない、信じたくない――――それは、逃避という名の自己防衛に他ならないのだけれども。

膝に顔を埋め、少年は泣く。
その涙さえも、何のために流れてくるのか分からなかった。



# ウタカタの桜 第12話 #



どのくらい時間が経ったのだろう。気が付くと、狭い部屋に差し込む光が白から橙色に変わっていた。唸り声を上げていた機械はとうに鳴き止み、音一つ聞こえない。
ズキズキと痛む頭に耐えながら、先程よりも更に重くなった体を何とか起こす。顔でも洗おうと覚束無い足取りで洗面所まで行き、そこの鏡に映った自分を見て、少年は小さく自嘲した。
そこには、数年前の自分がこちらを見ていた。
部活を止め剣道も止め、毎日喧嘩に明け暮れていたあの頃。何もかもがどうでもよくて、傷が一つ増える度にどろどろとした暗い満足感に囚われていた。痛みだけが生きている証だった。
そんな自分が目の前にいる――――否、今の自分はあの時の自分なのだ。嘲る様に笑っているのは、自分自身なのだ。
ぐらり、と視界が揺れた。空気が生ぬるくなり、皮膚に張り付いてくる。縫い付けられたかのように相手を見つめ、また、相手も自分を見ていた。
闇の中で、そっと『自分』が口を開く。


ま た に げ る の か


――――――――――――ガチャンッッ!!!
パラパラと細かい破片が落ちていく。ガラスの割れる音と伝わる痛みに、気付いた時には既に薄いガラスは砕け、拳を中心に八方に線を描いていた。
逃げる?違う、だってファイがそう言ったじゃないか。サヨナラと言ったじゃないか。自分の目を見て、笑いながら言ったじゃないか。


そう、笑って―――――――――――――――――笑って?


はっ、とした。その事実に気が付いた時、まるで電流が走ったかのように体中が震えた。
弾かれたかのようにその場から足を翻す。靴をつっかけ、何度か転びそうになりながらアパートを後にした。
ドクドクと心臓が鳴って痛い。たった今、己の手の中に降りてきた事が真実ならば、自分はなんと愚かなのだろう。だってそうじゃないか、自分は知っていたのだ。
ファイは、本音を話す時は他人の目を見ない事を。





いつからこうなったのだろう。何故、こうなったのだろう。
全てが変わったあの日から幾度となく繰り返してきた問いを、今日も一人思う。

大企業の社長という肩書きに相応しい、一人用にしては広すぎるこの部屋も、豪奢な机も色とりどりの魚が泳ぐアクアリウムも、何一つ己の心を動かすものは無い。きっと感情が死んでいるのだろう、あの日からずっと。
傍らに置いてあるそれを手に取る。そこに映っているのは在りし日のあの人の姿だ。もう二度と会えない、この世の何処にもいない、自分にとって唯一無二の存在。そんな人が、こちらを見て微笑んでいる。
そう、自分の心を動かせるのは、今はもうあの子だけだ。絶望の淵でやっと見つけた光。誰にも見せたくなくて、渡したくなくて、叶う事ならば一生何処かに閉じ込めておきたいとさえ思う。それがどんなに利己的で、あの子を苦しめているのか分かっているのだけれど。

椅子を軋ませ立ち上がる。先程秘書からの伝言を聞いた時、全身が狂気に震えた。吐き気を催す程のどす黒い感情。自然と口元が笑みに歪んだ。
あんな事があったのに、まさかこんなに早く来るとは思ってもいなかった――いや、本当は期待していたのだ。
ドアが軽く叩かれる。控えめな秘書の声が聞こえ、カチャリとドアが開けられた。視界に入ってきたのは予想通りの姿だった。秘書に下がるよう言い、その人物を招き入れる。
射抜くように睨んでくる視線に恍惚さえ覚えながら、自分は、ゆっくりと口を開いた。





「やぁ、まさか本当に来るとは思わなかったよ。しかもこんなにすぐ早く」

男は笑っていた。それは、初めて会った時と気味が悪い程に一寸も違わないものだった。
少年は腹に力を込め、小さく息を吐く。先程のようにはならない。この男に丸め込まれる訳にはいかなかった。

「一体、何の用かな?」
「今からアイツの所へ行きます。それを、言いに来ました」

その言葉に、男の顔から笑みが消えるのを少年は見逃さなかった。

「そう……。それで、ファイは君に何と言ったんだい?」
「サヨナラ、と言われました。けど、俺は納得がいかない」
「何故?」
「アイツがまた、嘘を吐いたから」

低く、しかしはっきりとした声が室内に響く。地に足を着け、堂々とした態度でそう話す少年は、ファイのマンションにいた時とは別人のようだった。

「……だったら、私の所へなど来なくともすぐにあの子の元へ行けばいいだろう。何故、わざわざここへ来たのかな?」

男の口調は、子どもだからと少年を馬鹿にするようなものではない。まるで歌うように、言葉が旋律に乗っているかのように話すそれは、きっと男の癖なのだ。ファイの笑顔と同じような意味を持つのだと、少年は思った。

「もし、今戻ったとしてもアイツはまた俺を拒絶する。だからそうさせないためにも話をつけに来た――――――アンタと」
「そう、か……」

机に手をかけ、男は呟く。しかし次の瞬間には、再びその口に笑みを刻んでいた。

「それで、それを言ってどうなると言うんだい。私が素直にファイを渡すとでも?」
「渡すとか渡さないとかじゃない。そんなのどーだっていい。ただ、俺にとってアイツが必要なだけだ」
「……そういう偽善は、気分がいいのかな」
「は?何言って、」
「そうだろう?あの子と共にいるという事は、生涯私との事が付きまとうという事だ。たった15年程しか生きていない君に、それがどういう意味を持つのか分かるかい?」

挑発的に光る黄金色の瞳が、今度は逆に少年を貫いた。
刻んだ笑みを歪めながら、男は少年の方へゆっくりと歩いていく。

「これは御伽噺じゃあないんだ。現実だよ。あの子が私としてきた事を、君はもう知っているのだろう?それを知っていて尚、一生あの子の側にいれると断言出来るかい?この先君達の間で何か上手くいかない事があった時、私の事を思い出して結果的にあの子を憎む事になるんじゃないのかい?」

一歩、また一歩と男は近づいて来る。そしてとうとう、少年の目の前で立ち止まった。

「全てを受け入れるとはそういう事だ。そんなのは、幻想だよ」

私には出来なかった――――

そう、少年には聞こえた気がした。反射的に男を見ると、やはり寸分違わず能面のように笑顔を貼り付けたままだったので、聞き間違いかと思ってしまった。
その金色の瞳からは何の感情も読み取れない。しかし今感じた違和感は、少年には身に覚えがあった。そう、ファイが父親の話をする時に見せるそれと、そっくりだったのだ。

「…………けんなよ」
「、何か言ったかい?」
「ふざけんなっつったんだよ」

ぐ、と拳を握り、感情が先走りそうになるのを押さえながら少年は続ける。
ファイの笑った顔、泣いた顔。それら全部が嘘だとは決して思わない。ファイの嘘はどれも自己保身のためではない。全ては、この目の前にいる人物から自分を守るためのものだ。
不思議だと思った。あの時には分からなかったファイの気持ちが、今は手に取るように分かる。たった一つの事実が、その全てを晴らした。父親への想い、そして自分への想い。その狭間で、ファイは苦しんでいたのだ。先の見えない不安の中でずっと、たった独りで。
それが分かった今、少年の中に迷いなど無かった。

「そんな覚悟もねーで誰がこんな所まで来るかよ。あんな……男で、いっつもへらへら笑って本心なんかなんも話さねーめんどくさいヤツの相手なんか、好きでも覚悟でもなきゃ出来るわけねーだろ」
「…………」
「何が偽善だ。何が御伽噺だ。ふざけんなよ。舐めんのもいい加減にしろよ」

一度息を吸う。怒りと共に、それとは程遠い感情が急に込み上げてきた。
男の言う事は当たっている。現実から目を逸らしていたのは、誰でもない自分だ。ファイの過去を知れば気持ちが楽になると、軽々しく考えていたのも自分だ。それがどんなに愚かで浅はかだったのか。
自己嫌悪で吐き気がする。でも、それでも、自分の心に嘘を吐いてまで守ろうとしてくれたファイに、背を向ける事だけはもうしたくはない。ファイと対等に向き合いたい。そのための力が、勇気が欲しい。
そんなものはいらないと、ファイは笑うのかもしれないけれど。

――――――……唄、」
「……え?」
「アイツが言ってた。アンタが、よく歌ってたって」

しばしの沈黙の後、ぽつりと呟かれた言葉に、男の瞳が開かれる。

「すんげー下手くそだけどな。ビックリするくらいに下手なんだけどな。……でも、歌ってる時のアイツ、幸せそうな顔してんだ」

それと同時に、哀しそうに瞳を曇らせるけれど。

「アイツが歌ってるとこ、見た事あるか?」
――――――……いや、」

男が小さく否定する。それを見て、少年はなんだと思った。
なんだ、そんな事も知らないのか。10年も経っているのに、そんな事さえ分からないのかと。
ふと、両親が浮かんだ。優しく、時には厳しく育ててくれた両親。口うるさい母親が煩わしくて、言い争いをしていた毎日。でも、今は少年にとって何一つ捨てられない、大切で無二な思い出だ。
ああ、そうか。きっと、そういう事なのだ。

「アンタらさ、……言葉が、足んねーんだよ」

赤い靴を履いて遠い異国へ旅立った少女の唄を、何故、この男が歌っていたのか。そしてそれを何故、ファイが歌っていたのか。
その理由は少年には分からない。知りたくもなかった。それを知らなければいけないのは、自分ではない。

「もっとさ……話せよ。何でもいいから。俺の母親なんて、毎日毎日どーでもいい事ばっか聞いてきたぜ。どこか出かける時とか、必ず手紙置いてくしさ」

もう二度と使われる事のない、ピンク色の少女趣味なメモ帳が懐かしい。そういえばあれはどこにやっただろう。最後のだけでなく、今までの全て取っておくべきだったなと、今更後悔しても遅い事を少年は思った。
全く、容姿端麗頭脳明晰運動神経抜群な学園の高嶺の花が聞いて呆れる。答が分からないのならば聞けばいい。きっと今なら、この男は応えてくれる。
だって見てしまったから。一瞬だけだったけれど、我が子への愛に満ちた、『父親』の顔をした、どこまでも不器用な男を。





外に出ると、既に日はとっぷりと暮れていた。
トンッ、と軽やかにコンクリートの地面に足を着け、少年は背伸びをする。一つ息を吐けば、濃紺の空に白く溶けていった。
丁寧に治療され包帯が巻かれた左手には、一通の手紙があった。差出人は言うまでもない。今は電子メールがあるにも関わらず、手紙という古風なものを預けられるとは思ってもいなかった。その事実に、少し胸がくすぐったくなる。

宛先は勿論、かの愛しい人。
顔を上げ、少年は走り出す。何だかひどく、ファイに会いたかった。