覚えているものは、何も無い。
ただどうしようもなく独りで、寂しくて、いつも寒さに震えていたような気がする。
初めて会ったあの人は、とても優しかった。施設からの帰り道、あの人は自分の手を取って歩いてくれた。ゆっくりと、歩幅を合わせて。
目まぐるしく変わっていく環境とは裏腹に、あの人の周りは、そこだけ時間が止まっているかのようだった。深い闇に浮かぶ、お月様のような瞳。じんわりと体を包み込む、低く響く声。気が付けば、自然と足が向いていた。
優しかった。暖かくて暖かくて、凍っていた心が少しずつ溶かされていくのが分かった。
不変。変わらない暖かさが、あの人の隣にはいつもあった。
あの人が、大好きだった。
# ウタカタの桜 第11話 #
「――――……あの人は、母さんがオレを生んだ後に結婚した人。本当の父親は知らない。もう、どこにもいないのかもしれないけど」
初めて話す、自分の事。
ぎゅう、とシーツを握り締め、震える体を叱咤しながら紡ぐ言葉達は、少年の耳に届いているのだろうか。自分は、届いて欲しいのだろうか。
「自分に母親がいたなんて、あの人に言われるまで知らなかった。一度写真で見た事があるんだけど、オレと同じ髪の色をしてた……優しそうだった」
会った事もなければ話した事もない母親は、こげ茶色の額の中で、幸せそうに微笑んでいた。あの人は、写真を見せる以外、母さんの事は何も教えてくれなかった。ただ時折、遠くを眺めてはあの歌を口ずさんでいた。
写真を見た夜は、中々眠れなかった。ドキドキして、胸が熱くて、そして、施設にいた時のように心が痛んだ。
当時はその感情の正体は分からなかったけれど、今思えば、自分は欲しかったのだろう。あの幸福を絵に描いたかのような家族に、ひどく焦がれていたのだ。
「でも――――母さんは、死んだ」
仕事で一足先に日本へ戻っていたあの人の下へ行く途中、乗っていた飛行機の墜落による、事故死。
残されたあの人は、孤独と切望の中で、自分が残されている事を知ったのだという。
「それで……10年くらい前かな。施設にいたオレを、あの人が引き取りに来たんだ」
今でも覚えている。初めて会ったあの人を。懐かしむような愛おしむような、そしてどこか哀しげな様子で、自分を見つめたあの人。
それからしばらくは幸せだった。あの人を始め、屋敷の人達も自分を快く受け入れてくれた。自分はこんなにも笑えるのだと、初めて知った。
でも――――
「きっかけは、何だったんだろう……」
遠い遠い記憶。幸せだったそれが、一瞬にして姿を変えた、あの日。
些細な問いを投げかけた、無知故の、幼い質問。笑ってくれると思った。いつものように、お月様の瞳を細めて応えてくれると思った。
けれどあの人の顔は強張り、初めてその月に影が降りた。その時初めて、あの人を怖いと思った。
そしてその後の事は、余り記憶に無い。
「あの日から、毎日のように陵辱されてきた。でも……それは、オレも望んだ事だ」
その言葉に、少年は息を呑む。
軽蔑したのだろう。だって、あの人に嫌われたくない、ただそれだけの理由で、自分は何年も肌を重ねてきたのだ。そうする事で、あの人が自分を見てくれるのならそれでいいと思った。初めて出来た家族を、手放したくはなかった。例えそれが、異常だと分かっていても。
自然と口元が笑みの形に歪んだ。
「……何、軽蔑した?でもさ、せっかく人が終わりって言ってあげたのに、近づいて来たのは君だよ?」
顔を上げる。薄闇の中、ひどく紅い瞳とぶつかった。
それを見て、ああ、自分はまた傷付けてしまったのだと思った。
「だから言ったのに。ホント、君は優しいんだかお人好しなんだか」
愚かだね、と笑う。
言えば言う程、少年が傷付いていくのが分かった。けれど、一度口にしてしまうと止められない。
だから続けた。誰よりも愛おしい人との関係を終わらすための、最後の言葉を。
「楽しかったよー。ちょっとコイビト同士っぽい事とか出来て。オレ、今までそーいうのした事無かったからさ。ちょっとした暇つぶし?みたいな」
初めは、ほんの気まぐれだった。あの人に対する反抗心から、というのもあったのかもしれない。でも、何か言う度に逐一反応してくるのが楽しくて、公園の事件の後、片時も離れず側にいてくれるのが嬉しくて、いつの間にか、まるで自分が普通の高校生になったかのように錯覚していた。
普通に、他のクラスメイト達のように、誰かと他愛の無い会話をしたり、恋をしたりする事に、ずっと憧れていたから。
「でも、もうバレちゃったし、これからはまたお父さんの相手をしなくちゃだから、……だから、」
可哀想な自分と重ねているだけだろう?と、あの人の言葉が蘇る。
けれどそれは違う。憐憫や同情からは決して生まれる事は無い。知っているのだ。共に過ごした日々の中で生まれる、奇跡のようなこの感情を。
10年前、あの人と出会ってからずっと。
「だから、えっと――――っ、」
堰を切ったかのように涙が溢れた。ぼたぼたと音を立てシーツに落ちていくそれらに気付き、慌てて下を向く。
次で最後だ。これを言えば、もう完全に終わりになる。あの人からは逃れる事など出来はしない。あの人は、こうして自分から奪っていくのだ。何もかも。
カタカタを手が大きく震える。それらを悟られまいと、もう片方の手で思い切り押さえつけた。
「――――っ、!だ、から……これで、っ!」
嬉しかった。一緒に帰ってくれた事もお茶を零して怒ってくれた事も公園で助けてくれた事も電話のコードを抜いてくれた事も殴ったのはやりすぎだとは思うけどそれ程真剣に怒ってくれた事もマンションの前で待っていてくれた事も初めて弱い部分を見せてくれた事も一緒にご飯を食べたりお泊りした事も手を繋いで帰った事も守ってやると言ってキスをしてくれた事も。
そして何より、再び剣道を始めた事が。
未来の無い自分にはその決意はとても眩しくて、そして羨ましかった。けれど、それよりも嬉しさの方が勝った。
誰かに頼る事を知らない不器用な少年に、心から幸せになって欲しいと思った。
だから、
――――君は、彼を幸せになど出来はしない。
「サヨナラ」
大好きだよ、これからもずっと。
ずっとずっと、君だけを。