マンションを出ると、そこは初めて一緒に登校した時に少年が立っていた場所だ。そこから左へ行くと、ふざけ合いながら歩いた道が続き、その途中には、初めて少年に告白した場所がある。
こうしてみると、学校までの道のりには少年との思い出が過ぎる程に詰まっていた。
バカだな、と呟き立ち止まる。思わず涙が零れそうになり、慌てて上を向いた。別れを切り出したのは自分なのに、こうしている事がひどくみっともない。しかし今は、少しでも少年の面影に触れていたかった。

もう今度こそ二度と会わないと、そう決めたから。



# ウタカタの桜 最終話 #



暗闇の中で浮かぶ金を見た。それを認め、少年の足は驚きに止まる。
そしてその足音に振り向いた金の髪の持ち主も、少年の姿を見、固まった。

「…………」
「…………」

沈黙が二人の間に落ちる。
少年が一歩踏み出すと、反射的に相手も一歩下がった。

「……何で逃げんだよ」
「…………」
「つか、何でここにいんだ?」

そこは、少年のアパートの前だった。ファイの義父の会社からマンションへは、このアパートを通っていくしかない。真っ先にファイの元へ行こうとしていた少年にとって、この状況は予想外だった。
もう一歩、足を踏み出す。

「俺は、アンタのトコ行こうとしてたんだけど、」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………何か言えよ、コラ」

一歩踏み出す度に後ろへ下がっていく動作を繰り返している二人は、傍から見るとまぬけ以外の何者でもないだろう。
ファイもファイで、余りに突然すぎる事態に思考がついていかなかった。まさか思い出巡りをしていました〜だなんて、そんな女々しい事を言えるはずもない。
それでもじわじわと距離を詰められ、とうとう耐え切れずに、ファイは少年に背を向けて走り出した。

「ッ、オイ!」

やっぱり逃げたと、一つ舌打ちをし少年は追いかける。先程走ってきたとはいえ、体格的にも体力的にも少年の方が遥かに有利だ。数百メートルもしないうちに、あっさりと捕獲に成功する。
相変わらず細すぎるファイの手首を掴み、無理矢理こちらへ向けさせた。

「っ、こっち見ろよ」
「…………い、」
「見ろって!」

両手首を物凄い力で掴まれても、ファイは顔を上げなかった。いやいやと、ただ金の髪を左右に揺らす。
少年は、はぁ、と息を吐き口を開いた。

「……アンタの父親と、話をつけて来た」
「え……」
「やっと見たな」

そう言われ、ファイは言葉に詰まる。しかし少年の左手に巻かれた包帯に気付くと、さっと顔色を変えた。

「そっ、それ……!」
「あ?――ああ、これか」

ファイに言われ、さも今気付いたかのように少年は左手を見る。そしてしばし考えた後、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべ、

「悪ぃ。アンタの父親、殴った」
「え!?」
「嘘」
「ええ!!?」
「ホントは鏡割った」
「はぇえ!!!?」

自分の言葉に目を白黒させて逐一反応するファイが面白くて、思わず少年は噴出してしまった。からかわれた事に気付いたファイは、その顔を真っ赤に染め抗議する。それがまた面白くて、余計に笑ってしまうのだけれど。

「もぅ、何なのさ……」

そう脱力したファイに、これ、と少年は差し出す。

「手紙。アンタにだって」

突然の事に目をぱちくりさせていたファイは、表に書いてある文字を見て瞳を揺らした。震える手で封を切る。きっと初めてだろう、義父からの手紙を読み、みるみるその瞳に涙を溜めていく。

「これ、……どうして、」
「だから、話をつけて来たっつったろ」

あの後、ファイに手紙を書くと言い男は机に向かった。時間はどれくらいかかっただろう。長いような、短いような、そのどちらでもない気がした。
その間少年は左手の治療を受け、終わってからはただぼんやりと、手紙を書く男を見ていた。会話も無く、見られている事にすら気付かない、そんな男が少しだけ羨ましかった。
あの男は一体何を書いたのだろう。どんな想いを、その真っ白い紙にぶつけたのだろうか。気にならないと言えば嘘になるが、今のファイの表情が全てを物語っている気がした。

「なんか、また外国に戻るって言ってた。今度は長期らしいぞ」
「……うん、……書いてあった」
「どうする?」
「………………冬に、休みになったら……会いに行く」

ごしごしと袖で涙を吹きながらそう言ったファイに、少年は小さく笑った。
頬に当たる夜風は冷たい。秋の始まりを告げる金木犀の香りが辺りに立ち込め、ファイと会ってからもう3つの季節を跨いでいる事に気が付いた。
あー、とわざとらしく咳をすると、濡れそぼった蒼い瞳がこちらを向く。

「これでもう、サヨナラは無しだよな」

髪と同じ色の睫毛に縁取られキラキラと輝くそれは、出会った時と同じく綺麗だと少年は思った。

「どうなんだよ」
「え……ええと、それは……」
「じゃ、決まりだな。無しだナシ」
「えっ、!」
「んだよ嫌なのか」

少年の言葉に、うーとかあーとか蚊の鳴くような声を上げ、ファイは再び俯く。
全く、これでは一体どちらが年上なのだろう。目の前には、出会った頃には想像もつかなかったファイがいた。
愛おしいと思う。春に出会い、夏に別れ、そして今、再びこうして向き合っている。
ここまで他人と深く関わるのは初めてで、それはきっと、ファイも同じなのだ。

――――なぁ、」

耳まで真っ赤に染めたファイに、雫を一つ落とすように、優しく少年は語りかける。
伝えたい事があった。伝えなければならない事が。

「もう、いいだろ……。嘘とか、強がりと、そーいうの。年上だからって、人の心配ばっかしてんじゃねーよ」

ああ、空色の瞳が、

「アンタはさ、普通の、どーでもいい事でバカみたいに騒いだり、恋愛したりする、アホな『高校生』、だろ――?」

なぁ、そうだろ?と少年は言う。
ファイは答えられなかった。涙が次々と溢れてきて止まらない。そうだ、だって自分は笑っていた。喧嘩をすれば涙を流し、仲直りをすれば嬉しくて、少年の事を想うだけで心が震えた。
それは、ずっと自分が思い描いていた姿だった。他のクラスメイト達と何ら変わらない、些細な事で心動かされる日々。怒って、泣いて、そして笑って――――モノクロだと思っていた世界は、少年と出会ったあの日から、既に色鮮やかに染まっていたのだ。


もう押し殺したりはしない。ファイはただ、泣いた。
生まれたての赤ん坊のように、ひたすら何かを求めるように、強く強く、ただ、泣き続けた。





そして、季節は巡っていく。

「くーろたん、こっち!」

ブンブンと手を振りファイは叫んだ。深緑色のブレザーの胸元には赤い花。その手には、黒い筒を持っている。
少年は駆け寄り、そして恭しく一礼した。

「卒業オメデトウゴザイマス、先輩」

その言葉にファイは一瞬驚いた顔をして、次に思い切り笑った。君に先輩って言われたのは初めてだと、冗談交じりにそう言われ、少年もまた笑う。
式後の告白ラッシュから何とか逃げてきたというファイの後ろには、桜の木があった。ちらちらと薄桃色の花を付けひっそりと咲いているその木は、ファイと出会った時と何ら変わらない姿でそこにいる。
何故ファイがこんな木を気にかけていたのかという疑問は、あの時は気付かなかったけれど、今では分かる。綺麗な花を咲かせているにも関わらず、誰からも見向きもされないこの木を、きっとファイは自分と重ねていたのだろう。

「黒たんと出会って、もう一年になるんだねー」

そう感慨深く言うファイは、あの後、義父とそれなりに上手くやれているらしい。手紙が届いたと、よく話してくれた。
まだ全てが解決した訳ではないけれど、この二人なら大丈夫だという確信が、そんなファイを見る度に少年の中で深まっていった。

「オレが卒業しちゃっても、泣いたりしちゃだめだよー」
「誰が泣くかよ」
「うわ、ひっどーい!」

紆余曲折を経て本当の意味で結ばれたあの秋の日が、今はひどく遠い昔の事のように思える。それ程に、ファイと過ごして来た日々は一つ一つが大切だった。いや、過去だけではない。今も、そしてこれからも全て。

「別に、いつでも会えんじゃねーか。ここじゃなくても」

そう言うと、ファイは破顔した。心から嬉しそうな、本当の笑顔で。見慣れているはずのそれに、不覚にも少年の心臓は高鳴った。
桜の木を振り返る。風が吹く度にその一枚が空に舞うのを見て、ファイは、

「ね、知ってる?桜の花びらを掴むと、願いが叶うんだって」
「はぁ?んなの嘘に決まって、」
「よぅし、やってみようー!」

少年の言葉は、ファイの声と革靴がコンクリートと擦れる音に掻き消された。ぐ、と膝を曲げ、タイミングを見計らって飛び上がる。しかしどうやら一回目は失敗したようだ。あー残念、という声が聞こえた。

「とう!」

ひらり。

「ぅりゃ!」

ひらり。

それでもファイは諦める事なく、二度三度と繰り返しては、やはり目的を達成出来ないでいた。
その様子を少年はじっと見ていた。花びらを掴むのに飛び上がる必要性がどこにあるのか甚だ疑問だったが、まぁ、気の済むまでやらしておくかと、壁に凭れ静観を決め込む。
ファイのこの奇怪な行動は今に始まった事ではない。そもそも親への反抗心だけで女装をするなど、この世でファイだけだろう。出会ってから何度思ったのか数えるのも嫌だが、やはり外見が日本人離れしている人間は言動も日本人離れしているのだ。
そして幾度目かの挑戦の後、ああっ!という大声が耳に飛び込んだ。振り向いたファイの手の平には、一枚の花弁がちょこりと乗っていた。落ちないよう、少しだけ緩めた拳の隙間から薄桃色が覗く。
頬を同じようにさくら色に染め、ファイは笑った。

「ね!ね!見て取れたよホラ――――――ッ、!」

その笑顔を見た瞬間、少年は思わずファイの腕を引き唇を寄せていた。一度だけ触れすぐに離れたそれを、ファイは零れ落ちんばかりに瞳を丸くし、ぽかんと口を開け見つめる。

「…………んだよ」
「……願い、叶った」
「は?」
「黒りんとキスしたいなーって、思ってたから……」

そう言ったファイの唇を、少年は再び塞いだ。角度を変え優しく、時には激しく何度も何度も。途中、力の抜けたファイを支え、縺れ合う様にしてコンクリートの地面へずり落ちながらも、それでも続けた。
今度は、ファイは音を上げなかった。むしろもっと、とでも言うように少年の首に手を回してくる。それが、切なくなる程に嬉しい。
はぁ、と息を吐き見つめ合う。紅潮している頬が何だか可笑しくて、額をぶつけ合い、また笑った。

「あ、思い出した」
「んん?」
「アンタさ、何で俺の事知ってたんだ?」
「え、何の事?」
「とぼけんなよ。去年の入学式ん時だ。俺の名前呼んだだろが」
「ああ!」

そういえばそんな事もあったねぇと、呑気にファイは答える。そしてニコリと、そこら辺にいる男ならばその可憐さに頬を染めてしまうような笑みを浮かべ、

「ふふ、どうしようかなぁ」
「あ?何言って、」
「だぁってさ、秘密は多い方がいいじゃない?すぐに教えたらつまらないでしょー」

なんて事を言い放った。…………今のはなんだ、とファイの言葉が一瞬理解出来なくて、というか脳が思考を拒否したため、少年は眉間の皺をそれはもう深く深く刻んだ。
どうやらそう簡単には教える気はないらしい。何やら出会った当時に戻ってしまったような錯覚を覚え、少年はくらりと眩暈がした。
これからも、ファイのこの日本人離れした言動に振り回される事になるのは明白だ。そんな運命を呪いつつも、ちくしょうやってやろうじゃねぇかと少年は奮起する。
こうなったらとことん何処まででも付き合ってやると、そんな事を思っているなど露知らず、ファイは少年の制服を引っ張ると、

「ね、黒たん。もう一回――――

そして唇を近付ける。その意図を理解した少年は、勿論拒否などしなかった。
触れるだけの口付けを終え、ファイはくるりと身を翻す。猫のように少年の腕から逃れ、その細腕を高く伸ばした。
その手の中には、一枚の桜の花。指をそっと広げ風に乗せると、肌色の牢獄から解放されたそれはひらりひらりと空に紛れ、やがて見えなくなった。それを見送り、一つ深呼吸をする。



そして少年は、唄を歌った。



その唄が、そう、遠い遠いあの国まで届くようにと祈りながら。
いつまでも、歌っていた。
















Fin.






あとがき






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