黒たん、と呼ばれた。
「だってぇ『黒鋼』って何だかかたっくるしいしー。オレ的にはこっちの方がオススメなんだけどなぁ」
何だそれは、と言おうとしたけれど、やけに嬉しそうに何度も呼んでくるので、とうとう根負けしてしまった。
腕を伸ばし引き寄せる。お返しに名を呼ぶと、その頬をぱっと染め上げた。それに一つ笑い。
こつん、と額をぶつけ、その口を塞いだ。
† 薔薇が蒼いその理由は 第九話 †
日本国の未来を担う少年王の狩猟の日として、今日は最適だ。
空は雲一つ無く、どこまでも青々と広がっている。風も無く、獲物にこちらの気配が悟られる事も少ない。昨日偵察に言った兵士からの報告だった。
以上の事を星史郎は滑るような口調で告げる。さすがは黒鋼の名代として外交官をしているだけの事はある。一つの嫌味も無く流暢に放たれる言の葉達は、まるで生命を持っているかのように聞く人の心に入り込んでいく。現にそれを聞いた少年は目を輝かせていた。
それを認め、ファイは微笑ましそうにその目を細める。そして従者に手を引かれながら、ゆっくりと馬車から降りた。
狩り場に現れた貴婦人に、少年王は感嘆の声を挙げる。
「とても綺麗です、公妃」
少年の名は小狼という。齢十四でありながらこの日本国の王だ。
今は宰相であるあの男に政の全てを任しているが、近い将来、この少年は歴代の王に負けないくらい良き王となるであろう。誠実で真面目な性格が、その琥珀色の瞳からも良く分かる。
この少年と会うのは結婚式以来だった。
「お褒めいただき光栄ですわ、陛下」
そう優雅な動作で礼をするファイが身に纏っているのは、蒼い狩猟服。
狩猟服といっても女性用のそれで、普段のドレスとさほど変わりない。違うのは、動き易いよう裾の丈が少々短めにしてあり、そこから革製のブーツが覗いているくらいだ。髪型も、狩猟という活動的な場に合わせたのか、後ろで一つに纏め上げ、その豊かで美しい髪を惜しげもなく下ろしている。その間からちらりと覗く白い首筋が妙に色っぽい。
そしてその金の草原には、蒼色の薔薇が一つ咲いていた。その薔薇は勿論、以前男がファイに贈ったものだった。
それに女性が実際鉄砲を持つ事など無い時代。大体において、狩猟場にいる女性は象徴のように扱われるのだ。すなわち、狩りの女神と。
この場合、ファイは男なのでその効果があるかは知れないが。
「お初にお目もじいたします。サクラ公妃」
「お会い出来て嬉しいですわ。桜塚伯爵」
ファイの姿を認め、星史郎が歩み寄ってくる。
それにも一つ礼をし、ファイはにこりと笑いかけた。
「なんともったいないお言葉。しかも名前まで覚えていてくださったとは」
「夫からよく聞いておりますの。いつも黒鋼公の右腕として大陸中を飛び回ってくださっているとか。私からも一度お礼を言いたかったのです」
ありがとうございますと、にこりと笑い右手を差し出す。
星史郎は了解したかのようにその手を取り、甲に口付けた。その動作はまるで流れるようで、乱雑なあの男とは違い、まるで宮廷恋愛小説に出てくるようなプレイボーイのそれであった。
口付けを終えた星史郎は、その手を離さずファイの顔に視線を向ける。双眼を細め、じぃっと見つめてくる星史郎に一瞬戸惑ったが、ファイはそこで初めて、彼の左右の瞳の色が違う事に気が付いた。
「ああ、やはりそうでしたか」
「え?」
「いや、公妃がお召しになっていらっしゃるそのコサージュです。実は、それを選んだのは僕でして」
「まぁ、そうでしたの」
「あの朴念仁である黒鋼公が、妻である貴方に一度も贈り物をした事がないというもので。それはいかん、と誠に勝手ながら助言をさせて頂きました」
ああ朴念仁などと失礼でしたね、どうも長年付き合っているものでそこらへんの礼儀というものを失念してしまいます、とにこやかに言う星史郎に、ファイもつられて笑う。
確かに星史郎言う通り、あの男がこんな趣味の良い贈り物を自ら選んだなど想像しただけで可笑しい。男の意志ではなかった事は少し淋しいが、この洒落っ気のある星史郎が選んだという方がよほどしっくりくる。
「いいえ。私も夫の朴念仁で鈍感で自分勝手な所には、ほとほと呆れておりますから」
「やはりご苦労なされておりますか。親友の立場として、代わりにお詫び申し上げます」
そう芝居がかった動作で大げさに言う星史郎に、ファイは今度こそ声を上げて笑ってしまった。
「誰が朴念仁で鈍感で自分勝手だ?」
と、二人の背後から低い声が響いた。
振り返るといかにも不機嫌という顔(まぁ、この男は普段からこういう顔なのだが)をした男が立っていて。今日も今日とて黒い衣装に身を包んだ男は、素早い動作で二人に近づくと、握られたままのファイの右手を掴んだ。
「いつまで握ってんだ、星史郎」
「おっと、これは申し訳ない。けれど黒鋼公、こんなに美しい奥方を悲しませるなんて罪ですよ」
「これは俺達夫婦の問題だ。お前に口出しされる事じゃねぇな」
そう言って、ぐっと肩を引き寄せられる。まるで間男から妻を取り戻すようなその動作に、ファイの心は一瞬高鳴った。
星史郎は、そんな二人を面白そうに見つめると、
「朴念仁で鈍感で自分勝手ですか…言い当て妙ですな。さすがは日本国宰相の妻になられる事だけはある」
「星史郎てめぇ!」
クスクスと冗談交じりの笑いを残し、触らぬ神になんとやらと星史郎は去って行った。
ったくと呟く男は腕の中の人物を見つめ、
「…おい、お前も笑うな」
「ふふ。でも面白い方ですのね、桜塚伯爵って」
さすがあなたと長年友人として付き合っていられる訳ですわと言うファイに、どういうことだそりゃと男は返す。
そしてじっとファイを見つめた。先程の星史郎とは全く違い、熱っぽく見つめてくる男にファイは、
「な、何か?」
むずがゆいような、そんな奇妙な感覚を覚え、居心地悪そうに身じろいだ。
男は指を伸ばし、ファイの髪を飾っている薔薇へと触れる。そして抱き寄せる力を強め、耳元で囁くように言った。
「やはり似合うな。―――綺麗だ」
「ッ、」
唐突に囁かれた言葉に、ファイは一瞬でその顔を真っ赤にし、
「…陛下の狩猟にお供出来る素晴らしい日ですから。それに、貴方が贈ってくださった物ですもの」
と、しかし次には表面だけは立派な妻をなんとか演じた。
これではそこら辺の妻にメロメロな夫と変わりないじゃないかと、そうファイは内心毒付いたけれど、情熱的に見つめてくるその紅に、ぐっと言葉を飲み込んだ。
† † †
太陽がちょうど空の真ん中に昇った頃。
狩猟場の入り口に設けられた休憩場で、ファイと少年はお茶を楽しんでいた。ちなみに男と星史郎はというと、どちらがより多くの獲物を狩る事が出来るかと意気揚々に出掛けている。少々疲れてしまった少年とファイが二人を見送ったのは先程だ。
少年はちらりと隣に目を配る。そしてゆったりとした動作でカップを口に運んでいる夫人に訊ねた。
「公妃は…毎日楽しいですか?」
「え?」
少年の唐突な質問に、ファイはカップを離し視線を向ける。
質問の意図が分からず、その大きな瞳を丸くしこちらを見つめてくるファイに、少年は慌てたように付け足した。
「あ、いきなりすいません!いえ、あの……式の時の公妃の様子が気になっていたもので…」
そう言う少年に、ファイはその意を瞬時に飲み込んだ。
要はファイを心配しているのだ。セレスと日本の和平の証として―――つまり『人質』として嫁いで来たファイを。慣れない土地で一人、寂しい思いをしてはいないかと。
その考えに至り、ファイはふわりと笑う。嬉しかった。
「ありがとうございます。心配してくださっていたのですね」
そう言われ、少年はその目元を微かに染める。
それを認め、ファイは更に笑った。
「毎日…楽しいですわ。この国の人達はとても優しい方ばかりですもの。勿論、陛下も」
一国の王であるならば、普通その宰相の妻の様子など気にかける必要はない。ないのだが、どうやらこの心優しい少年王は違うらしい。
ファイの言葉に、少年は安堵したように息を吐き、
「それは良かった。叔父上も公妃に優しくしていて、公妃も嬉しそうで、見ていてとても安心しました」
そう言われ、今度は逆にファイの頬が赤く染まる。
嬉しそうとはどういう事だろう。そりゃ、初めの夜とは全く態度の違う男に少々…いや、かなり戸惑ってはいるが。
あの日、本当の名を告げたあの日から、どうも男の様子が変わった。毎夜館へ訪れファイを抱き締めて眠る。愛おしむように、慈しむように触れてくる指や唇に、胸の辺りがくすぐったい感覚を覚える。
―――俺達は夫婦だと。
そうはっきりと男は言う。自分は男だけれど、それでもその言葉にとても安心した事を覚えている。
夜の街をふらふらと放浪する自分に、地に足が着かないような日々に、それでも笑っていた自分に。
人の血を吸って生きる自分は、感情など持ってはいけない。それなのに、あの男に抱き締められた瞬間胸から沸き上がって来たものは、自分でも信じられなくて…いや、信じたくなくて。
「公妃?」
と、少年が心配気に声をかけてくる。
それにハッと顔を上げたファイは、すぐにその顔に笑顔を貼り付け、何でもありませんわと答えた。その瞬間。
パァンッ―――!!
発砲禁止のはずの休憩場の近くから、一発の銃声が聞こえた。そして近衛兵と誰かが争う声と剣と剣が混じり合う高い音がし、それらは確実にだんだんとこちらに近づいて来る。
ファイは一瞬にして事態を把握し、未だ飲み込めていない少年の手を取り即座に駆け出した。
「陛下、こちらへ!」
そう言い、近くの木に繋げてあった馬へと少年を乗せる。そして自分も隣の馬へひらりと乗り、何をと少年が思う間も無く繋がれている縄を二本、隠し持っていたカードを投げ切り離す。そのカードとは勿論、『怪盗D・ローザリー』のそれだった。
自由になった馬達は高らかに鳴き、尻を叩かれるままに走り出した。
「公妃!い、一体何が、」
「分かりません。ですが今は逃げる事が先で―――ッッ!?」
道に入ると、突然ぐらりと体が揺れた。
そしてそのまま馬から落ち、地面に強かに体をぶつける。一瞬意識が遠のいた。
「公妃!大丈夫ですか公妃!!」
馬を止め、こちらに引き返そうとしてくる少年に、
「私の事は構わず陛下だけでも逃げ…て……」
ぐらりぐらりと視界が反転する。
あの夜を思い出そうとする時の症状に似ているそれは、容赦無くファイの身体を襲った。キィンと耳鳴りがし、思わず頭を押さえようとする。が、腕が動かない。というか全身が銅像のように固まっている。これはまさか―――。
ジャリ、と誰かが自分の前に立つ気配がした。もう既に半分以上落ちかけている視界からは、それが誰だか見る事は叶わなかった。
揺れ動く意識の中で、ファイが最後に見たものは、酷薄そうに端を上げている口元と、そしてどこかで感じた感覚。
―――ああ、これは魔術だと。
そう、気付いた時には既に遅く。
閉じていく視界の中で、ぱさりと、あの薔薇が地面に落るのを感じた。