† 薔薇が蒼いその理由は 第八話 †
しばらくして、はぁ、とどちらともない息が漏れた。
抵抗していた腕はもう既に弛緩し、だらしなくソファから垂れている。覗き込んだ蒼は何の感情も映していない。それを見た瞬間、男の中に走ったものは、
「っ…!」
勢い良く身を離す。唐突に終わりを告げた口吻に、夢現を彷徨っていた瞳が剣呑そうにちろりと動いた。
罪悪感。
何だそれはと思った。そんな感情今まで感じた事など無かった。
少しでも隙を見せればたちまち追われる宮廷で、そんなものは不要だ。非情な相手には非情を持って制する。罪の意識なんて感じている暇などない。そう生きてきたのだ、自分は。
「……おい」
焦点が合わない瞳に声をかける。それでも戻らない意識に一瞬不安が過ぎり、頬を叩いた。
それに我に返ったように目が開かれ、ぱしんっ、と手を払われた。
男の下から、未だ何の感情も映さない瞳が睨んでくる。
「―――噛み切ってやろうかと思った」
そう言われたが、それが出来ない事をこの男はよく知っている。
再び手を伸ばせば距離を置かれた。その逃げるような動作に、何故か胸が締め付けられる。
「出来もしないくせに言うんじゃねぇよ」
「ッ、」
「…悪かった」
「何言っ、」
「だから泣くな」
泣いてなんか、という言葉は腕の中に閉じ込めて。
今度は大人しく収まった体にほっと一息吐く。抱きとめる瞬間、今にも零れ落ちそうな蒼を認め、再び胸が軋んだ。
こういう時、どのようにすればよいのか分からない男は不器用に言葉を紡ぐ。ただ抱き締め、子供をあやすかのように髪を撫で。
ぽつり、ぽつりと。ただただ謝罪の言葉を。
霧雨のようなそれに、ファイはゆっくりと瞼を閉じていった。
涙は零れなかった。
† † †
どのくらいそうしていたのだろう、ふと腕の中で金の髪が揺れた。
押すように腕を伸ばされ、されるがまま身を離す。華奢な腕の持ち主は、下を向いたまま言葉を紡いだ。
「……レが、」
小さな声は聞き取りにくく、顔を近づけようとするが、ぐっと腕で止められる。
「オレが吸血鬼…に、なったのは―――三年前、この国に来た時だった」
将軍に連れられ、この城下町に来たのだと。
そう言う人物に男は目を見張る。三年前。この国で。
満月の夜は外へ行ってはいけない、鬼に血を吸われるぞ―――。
男は瞬間的に思い出す。この国で流れている忌まわしきあの、
「っ、それは満月の夜じゃなかったか!?」
ぐっ、と腕を掴み男は聞いた。
「そう、だけど」
「やはりそうか。三年前となると…噂が流れて大分経った頃だな」
「え、ちょっと何、」
「知らないか?」
男は話した。十年前にこの国に現れた吸血鬼の噂を。
それを聞いたファイは、蒼い瞳をこれ以上ないくらいに開き、微かに震え始めた。
「オ、オレ…じゃない。オレはチィのしか、」
「分かってる。奴が現れたのは十年も前だ。誰もお前を疑ったりなどしない」
「ッ、じゃあ」
「問題は何故お前だけが吸血鬼になったのか、という事だ」
外傷も記憶もほとんど無いこの事件。被害に遭った者達も、その後は何不自由なくいつも通りに生活をしている。急に人の血を吸うようになった、だなんて話はない。
では何故ファイだけが?
「傷は?」
「え?」
「襲われた奴らは、皆腕のどこかに傷を負っていた」
「あ…それはオレにもあった。掠り傷程度だけど」
「そうか…」
男は、他に覚えている事はないかと問いただす。
ファイはしばらく逡巡した後、考えるかのように話し始めた。
「覚えているのは…満月と、道の冷たい感触と、あの―――」
目深に被ったフードから除く、酷薄そうに端を上げた口元と。
『こ ばんわ』
『きょ 月 あ る ね』
『 でも ぐ めが降 だ』
『…じゃ 、 べく早 ま うか』
ココデコロサナクテハ―――。
ツキンッ、と頭の中で何かが弾けた。
「―――――ッッ!!」
「どうした!?」
ぐらりと目の前が揺れ、キィンと耳鳴りがする。
頭を押さえ、急に身を崩したファイに男は驚く。思わず抱き留めた体は、華奢で今にも折れそうだった。
「おい…おい!!」
「だ、いじょうぶ…」
思い出そうとするといつもこうなんだ、とファイは続ける。
その青白い顔を認め、男は一つ舌打ちをすると、
「ぅわっ!」
「しっかり捕まってろ」
「ちょっ…と、何す、」
「うるせぇ」
腕を伸ばし、ファイの頭と膝裏に手を入れ抱き上げた。そしてそのまま部屋の扉を開け、どかどかと音を立て歩いていく。
途中何人かの使用人に会ったが、これを止める者などいない。深々と頭を下げ、自分たちが通り過ぎた後、何やら楽しそうに話をするのが聞こえた。
閨房へ入ると、そのまま寝台へ抱き上げた人物と共に倒れ込む。どさりと二人分の重さを受け止め、ベッドが軋んだ。
下敷きになっている人物の顔を見ると、先程とは打って変わって真っ赤に染まっていて、
「―――さ、」
「ん?」
「最低…あなた最低……」
見られたー、と絶望的に呟くファイに、口端を意地悪く上げ、
「別にいいじゃねぇか。今更だろそんなもん」
「あー絶対明日には城中で噂になってるんだー」
「なんだ不満か?」
「…当たり前でしょー」
「俺達は夫婦だぞ」
例え一時だけの仮初めの関係でも。
蒼い瞳を覗き込む。羞恥に目元を染めたそれと目が合い、どちらからともなく唇を触れ合わした。角度を変え、啄むような可愛らしいキスから深いキスまで。
先程の挑発に乗ってするようなキスではなく、何度も何度も目を合わせ、ただ優しく、どこまでも甘く。そこにある感情に気付かない振りを、して。
息をするために一旦唇を離す。再び口付けようと近付いたが、ファイは顔を背けて拒否をした。
眉間に皺を寄せ理由を問うと、蒼を逸らしたまま呟く。
「あなたは、こわく…ないの?」
「―――」
「だって…オレはきゅう、」
「言ったろ。俺達は夫婦だと」
震える体を強く抱きしめる。赤く染まる頬に手を当て、そこにも唇を落としながら耳元で囁いた。
昨夜と、同じ言葉を。
「名は」
「え…?」
「本当の名だ。―――あるだろう?」
そう紡ぐ男の唇を見つめ、腕の中の人物はもぞりと動いた。蒼い瞳は逡巡し、その端正な眉は困惑に揺れる。
男はもう一度強く抱き締め、同じ言葉を紡いだ。そしてようやく、
「――――――――――――――――――――ファイ…」
ようやく知れたそれに、男は満足そうに紅を細め、再び耳元で囁く。
「俺の名は『黒鋼』だ。これからはそう呼べ」
ぴくん、と身じろぐ体を抱き締めながら、そう優しく命令する。
そしてじわりとにじむ蒼を見つめ、促すようにもう一度口付けた。舌を絡め、奥にある言葉を誘い出すかのように。
「ん…」
はぁ、と息が漏れ閉じられていた蒼が開かれる。そしてぐいと首の後ろに腕を回され顔を寄せられた。その時、耳元で囁かれた名を、自分の名だと気付いたのはしばらく経ってからだった。
甘くとろけるように囁かれた名は、まるで自分のものではないようで。こんなにまで甘美に響くのかと、そう感心さえする程に。
そして再び寝台へと身を沈め、いたずらに首や胸元に口付けながら互いの服を剥いでいく。はやく、この先をと。
身も心も目の前の人物を求めている。頭から指の先まで、全て相手に支配されていく感覚に酔いながら、黒髪に指を絡め、再び囁かれた言葉はやはり甘く。
ひきょうもの、と聞こえた気がした―――。