男は驚愕した。
騒ぎを聞きつけ急いで戻ると、休憩場には誰もいなく、ただ飲みかけのカップが二つだけ残っていた。
争った形跡は一切ない。上手く逃げたのかと一瞬思ったが。

「黒鋼!」

馬を走らせ戻って来た星史郎は、その顔に焦りを浮かべていた。いつも冷静な彼にしては珍しいその表情に、男の背に悪寒が走る。
まさか、という予感は奇しくも当たっていて。向こうの道に落ちていたと、星史郎が差し出したそれを奪い取る。
蒼い、薔薇。

「周辺を探したが、他には何も残っていなかった」
「そうか…」

ぐっ、と薔薇を握りしめる。そして一度目を閉じ、再び開いた時には、その紅い双眼はしっかりと前を見据えていて。
星史郎を振り返り、日本国宰相の顔をして男は言う。

「馬はどうした」
「馬?」
「陛下とあいつは馬で逃げたはずだ」

その証拠に、近くの木には刃物で切られた馬の縄が残っていた。側に寄りよく見ると、その木には何か刺さっていて。それがファイのカードだと男には一瞬で知れ、それも抜き取り手の中で潰した。
しばらくして、兵士から連絡を受けた星史郎が男の元へ走って来た。

「黒鋼、狩猟場からかなり離れた所で馬が見つかった」
「何?」
「残念ながら陛下もサクラ公妃も乗っていない、無人の馬だそうだ。王族専用の紋が付いている」

しかも二頭、数も合っている。
いよいよ予感が本物になってきた事態に、男は焦る心を叱咤し、

「これがもし飛王の仕業なら…」
「黒鋼、まさか―――

燃えるような紅い瞳をして、今までに見た事のないような男に、星史郎は息を呑んだ。



† 薔薇が蒼いその理由は 第十話 †



たいがい自分の生い立ちも世間的に見れば可哀想なもので。
いや、可哀想というよりも奇妙なのかなと、そう己の中で呟いて。
ふらりと訪れた夜の街。人では無くなってしまった自分が見た、貧民街の様子は。

「貴族様、あの…」

暗闇から声がかかる。その主を辿ると、同い年くらいの少女だった。
煤汚れたボロボロの衣服を纏い、裸足でそろりと歩いてくる少女は、

「一晩だけで構いません…どうか……」

その先は言われなくても分かった。
俯いてそう言う少女に、その窪みきった目に、恐怖に震える指先に。

どうかひとばんじぶんをかってください―――

途端、視界が涙の被膜で覆われた。ぐにゃりと世界が揺らぐ。
それに驚いたのだろう、暗闇の中で少女が困惑するのが分かった。
それから自分は何をしたのか、よくは覚えていない。ただ咄嗟に袋を取り出し、少女に投げつけたような気がする。
そこに入っていたのは銅貨なのか銀貨なのかはたまた金貨なのかも既に分からない。分かるのは、頭の中で木霊する、たった一つの言葉だけで。


―――何故何故何故何故どうしてと。


初めて人の血を飲んだ時、錆びた鉄の匂いと、自分だけにしか感じられないであろうどろりとした甘い香りに包まれながら。
あの時と同じ言葉を、いつまでもいつまでも、


† † †


―――…」

夢を視た、気がする。幸福なものでなかった証拠に、体中には汗をかいていて。べっとりとまとわりつくそれに眉を顰めた。
身を起こそうとしてもそれは叶わず、指先一つ動かせない。
何故、と言う問いは既に愚問で、数瞬の後、ファイはその理由に辿り着く。
ああそうか自分は。

「お目覚めですか?」

すぐ側から声が掛かった。
首すらまともに動かせない自分は、しかしその声の主を良く知っている。何て事はない、つい今朝紹介されたばかりだ。

「苦労しましたよ。貴方には相変わらずあの魔女の力がかけられているのですから」

薄暗い部屋に笑みを含んだ声が響く。
何を言っているのだろうと思ったが、覚醒したばかりの頭ではその思考はすぐに閉ざされた。

「聞こえていますか?ああ、まだ効いているのかな」

しょうがないですねという声が聞こえ、次の瞬間、パチンッと何かが弾ける音がし、霞がかっていた視界が開けた。と同時にふわりと身体が軽くなる。
ゆっくりと身を起こし、先程聞こえて来た声の方へ視線を向ける。やはりそこには予想通りの人物がいた。

「桜塚伯爵…」
「そうです。偽物のサクラ姫」

そう恭しく星史郎は一礼する。そしてまだ少し重い体を引きずりながら、ファイも優雅に立ち上がった。
桜塚星史郎。まさかこの人だったとは。サクラを殺し、花嫁は偽物だと手紙を出した張本人。
いや黒幕、か。

「あなただったのですね」
「意外ですか?」
「ええ」

にこりと笑顔を張り付ける。その言葉は本心だった。確かにこの人物が犯人など意外ではあった。敵は近しい者にこそあり、ということか。
ファイは乱れたスカートを直す。身だしなみを整え、目の前の人物をきりりと見据えた。

「陛下はどこです?まさか私と同じように閉じこめているとは思えませんが」
「お察しの通り、僕の館で丁重におもてなしさせてもらっていますよ。あの方には用があるのでね」
「用?」

何の用かと思ったけれど、それよりも少年が無事で良かったとファイは小さく息を吐く。
この男の話を全て鵜呑みにする訳ではないが、先程の口振りからして、少年が無事なのは本当なのだろう。本心を笑顔の下に隠し、嘘か誠か分からないような話し方をする―――この性格は自分にも通じる所があって。
だからこそ分かる、この男の真実が。
ここは先代の王が建てた城なのですよ、と星史郎は言う。

「余り人には知られていませんがね。実際、使われる事も滅多に無かった」

だから隠れるのには丁度いいんです、とそうも付け加えて。
そしてクスリと笑う。その笑みに何か含みを感じ、ファイの眉が怪訝そうに寄った。それを一瞥し、星史郎はさらにもう一つ笑う。

「本当に気付かないなんて。僕の魔術もたいしたものだ」

魔術。その言葉にファイは大きく反応する。
そう、馬で逃げていたあの時。急に動かなくなった己の身体に疑問を持ったけれど、それが目の前の人物が仕掛けたものだとしたら納得がいく。だが。

「何故気が付かなかったのかと、そう、貴方は言いたいのですね」

そうだ。
いくら自分でも魔力を持つ者に気付かないはずは無い。どんな微かな力でも、それを敏感に感じ取る事は容易なはずだ。

「毎日…」

ポツリと星史郎が話し出す。
己の思考に浸っていたファイは、その雫が水面に一つ落ちるかのような話し方にハッと顔を上げた。

「毎日毎日…それが慢性的になるまで同じ魔力を浴びせられると、その人はどうなるでしょうね」
「まさ、か…」
「そう、そのまさかです。当然感覚は麻痺する。魔力をかけられているかいないかの境目が曖昧になる」

日本国へ来て男にあの手紙を見せられた時。その時感じた感覚は、あの後もしばらく続いていた。
しかしそれが感じられなくなったのはいつ頃だろう?
思い出せない。それ程までに長くかけられていたというのか。現に星史郎に会った時も全く何も感じなかった。

「ですが、貴方に対してさすがにそれだけでは無理でした。ですから僕は、最後の切り札を…」

と、そこで星史郎は言葉を切り、ファイへ近づく。
甘く輝く髪へと手を伸ばされ、ファイは思わず身を引いた。が、それよりも早く腰へと腕を回され引き寄せられる。

「蒼い薔薇」
「ッ、」
「言ったでしょう?あれを選んだのは、この僕だと」

蒼い瞳が開かれる。
星史郎は、そんなファイの顎に手を掛け更に囁く。

「貴方を陥れる魔力が仕掛けられているとも知らず、黒鋼は貴方に渡したのですよ。夫から、愛する妻へのプレゼントとして」

クツクツと星史郎は笑う。瞬間、目の前が赤くなった。どん、と男を押し離す。
簡単に押された男は、それでも面白そうに口元を歪め、

「貴方があの道に入り込むように誘導させ、予め魔法を仕掛けておきました。その、蒼い薔薇に反応するようにね」

そう笑う星史郎の声は、もうファイには届いていない。
あの黒鋼が、あの男が。自分に贈ってくれたあの薔薇に、どうしようもなく喜んだのは自分で。
嬉しかった。例え男が自分の意志でした事でなくとも、それでも礼を言った時の男の顔は本物だと思うから。


―――黒鋼。


混乱する思考の中で、ファイは縋るように男の名を呼んだ。

「……あなたの目的は何です」

そしてファイは問う。
城に魔力を仕掛け男にまで罠を贈らせて、そこまでしてこの男は何がしたいのかと。
問われた男はさぁ、何ででしょうねとはぐらかし。

「先程も言いましたが苦労したのですよ。貴方をこうして捕らえるために」
「だからどうして、」
「貴方には、強力な防護魔法が掛けられているから」

あの魔女の力によって。
その言葉にファイは大きく反応する。

「母を…知っているのですか」

そう驚くファイに、一度星史郎は大きく目を開く。
そして面白いとでも言う風にその目を細め、

「知っているも何も。魔力を持つ者の中で彼女を知らない人はいないですよ」

意味が分からない。一体この男は何を言っているのか。

「…何故、私に母の魔力が掛けられていると、そう分かるのですか?」
「昔話をしましょう」
「昔話?」

くるりと星史郎は背を向ける。そして扉近くにある木造りの簡素な机に手をかけ、空を見つめて語り出した。
昔、むかしのお話を。


† † †


昔々、ある国に、輝くような金の髪と宝石のような蒼い瞳を持つ、それはそれは美しい少年がいました。
少年は魔力を持っていましたが、その強大さ故に封印の術を施されていました。
少年は親元を離れ、親戚の将軍と静かに暮らしていました。

ある日の事です。
将軍の用事で、少年は隣国へと赴きました。
故郷とは違う家並み、店、人々―――初めての外国に少年は興奮していたのでしょう、その夜もなかなか寝付けなかった。
そう、丁度満月の綺麗な夜でした。
少年はその月に誘われるように外へと飛び出しました。月が明るく照らす道を、宿から離れすぎないように少しだけ。

しかしそこで少年は入る道を間違えてしまいました。
迷ってしまった少年は、月明かりを頼りに元来た道へと急ぎます。
早く戻らなくては抜け出した事がばれてしまうと、そう少年が思った時でした。
ひらり、と誰かが空から降りてきました。
驚いた少年は足を止めます。その人物は深く布を被っていて顔が良く見えません。ただ、どうやら口元は笑っているようでした。
驚いている少年に男は話しかけます。

「こんばん


† † †


ガタン―――ッッ!!

流れるような星史郎の話は、しかし突如遮られた。

「…あ、…あなたが……」

そこには、大きな目をこれ以上無いくらいに見開いている金髪の少年がいた。その白い肌は更に青白く、細い肩は微かに震え。
あの夜の。あの満月の晩の。宿へと急ぐ自分に声を掛けた。

「『こんばんわ』」
「『今日は月が綺麗ですね』」
「『ああ、でももうすぐ雨が降りそうだ』」
「『…じゃ、なるべく早く済ませましょうか』」

そう、あの夜と同じ言葉を高らかに星史郎は言う。
何故、どうして―――この男がその事を知っている?

「それは僕が、あの時の吸血鬼だからですよ」

あの時と同じように酷薄そうに口端を上げ、ガラス越しの瞳は柔和に微笑み。瞬間。



全ての記憶が蘇った。