満月の夜は外に出てはいけない、鬼に血を吸われるぞ―――。
† 薔薇が蒼いその理由は 第七話 †
飛王が戻って来ている。
そう告げると、目の前の人物は驚いたように声を上げた。
「それは…本当の事なのですか?」
「本人を見た者がいる」
「その者の名は?」
「それは言えねぇ」
「言えないって、黒鋼」
「とにかく、これは日本国の存亡がかかっている」
お前も何かあったら逐一報告するようにと、そう星史郎に言い男は立ち上がる。そして窓の外を睨むように見つめ考えた。
本物のセレス国王女を殺した張本人、飛王。しかし男にはどうにも解せない点があった。
仮にも一国の王女を殺す程の根性が果たしてあの男にあるのだろうか。あの男は策略を巡らす事に関しては確かに頭が回る。しかし何よりも保身を大事にする男の事だ。王女殺害というリスクの高い事を自らするだろうか。
誰かが裏で糸を引いている―――男はそう思っていた。
「で、」
「あ?」
自分の思考に耽っていた男は、思わず裏返った声を出してしまった。
それをごまかすように一つ咳をし、星史郎へ向き直す。星史郎はというと、そんな男に気付きつつ先程と打って変わって笑みを浮かべ、
「偽者の王女とはどうですか?噂によると大層仲が宜しいとか」
「なんだお前まで。宮廷雀じゃあるまいし」
「いやいや、今、この国で貴方とセレス国王女の噂をしない者などおりませんよ?」
「ふん」
そう言い男はどかりと椅子に座り直し、再び黙り込んだ。
一晩経った今でも夢だったのではないかと思ってしまう。金色に光るあの瞳、口元で囁かれたあの言葉。
吸血鬼―――だなんて。そんなの御伽話の中だけの出来事だとばかり思っていたのに。
「ま、その顔を見れば貴方が姫に入れ込んでいるのは明らかですね」
「はぁ?」
「そろそろ僕にも一目会わせて欲しいものです」
「……あ?紹介してなかったか?」
「そうですよ。全く貴方は昔からそういう所が抜けている」
くすりと含んだように星史郎は笑う。
それに男は悪かったと、素直に謝罪した。
「だったら…そうだな。来週、陛下と狩りの約束があるからお前も来るといい。その時あいつも連れて行くつもりだ」
「おや、陛下の狩猟にお供出来るとは光栄ですね。しかも噂の美姫にも会えるだなんて」
「…揶揄するつもりなら来なくていいぞ」
「ご冗談を。喜んでお供させて頂きますよ」
と、星史郎は胸に手を当て恭しく一礼する。そして仕事に戻ろうと背を向けたが、突然後ろから声をかけられた。
何用かと振り返ると、椅子に腰掛けている人物はいつになく険しい顔をして言った。
「―――数年前からだったか。城下町で変な噂がなかったか」
「変な噂?」
「『満月の夜は外に出るな、鬼に血を吸われるぞ』…だったっけか?詳しくは忘れたが」
ぴくり。
問われた男はほんの少し動きを止める。
「ああ、あの噂ですか。それが何か?」
「少し気になってな」
「貴方がそんな事を気にするなんて珍しい。調べてみますか?」
「頼む」
「分かりました。では…失礼しますね」
そしてぱたりと静かに扉を閉め、星史郎は出て行った。
† † †
満月の夜は外に出てはいけない、鬼に血を吸われるぞ―――。
その噂は、正確には十年前から流れ出たものだった。
夜の街を脅かすその鬼は、老若男女関わらず襲うという。他国では、吸血鬼は人の首を噛んで血を吸うという伝承があるが、どうやらこの日本国の鬼はそうではないらしい。
外傷は腕に空いた穴一つだけ。それも針の先のような小ささだ。
しかもおかしな事に、被害にあった者達は皆一様にその時の記憶が無いのだという。当人の記憶が無いのでは吸血鬼とは確定出来ない。金品等の盗難がない事から、ただの愉快犯の仕業かもしれない。
故に、今まで宮廷側も対処し損ねてきたのだった。
「……」
男はしばし考え込み、そして立ち上がった。
† † †
「――――――――――――――――――なんだその態度は」
扉を開けての第一声は、長い長い沈黙と不機嫌そうな声だった。
側にはいつもの使用人の姿はない。あるのはテーブルクロスに行儀悪く肘を付き、カップを口に運んでいる夫人?の姿だけだ。
男の姿を確認もせず、夫人はその大きな瞳を半分細めると、
「別にー?ただあんな事があったのに懲りずにまたのこのことここに来る誰かさんのおバカ加減に呆れてただけー」
と、事も無げに言い放つ。
その言葉に男はがくりと肩を落とし、
「お前…性格変わったな」
「何言ってるの。これがホントのオレですよーだ」
今までのあの完璧な宮廷言葉は何処へ行ったのか。かなりくだけた…というか独特な言い回しだ。城下町の少年達でもこんな言い方はしないだろうに。
がたりと音を立て男は隣に座る。もちろん了解など取らずにだ。
「おい、茶くらい、」
「オレで良ければ淹れるけど?」
「あ、ああ」
「待ってて」
冷めた声で目も合わせずにファイは立ち上がる。そしてこぽこぽと湯が沸騰する音を背中越しに聞きながら、男はこっそりため息を吐いた。
どうもいつものように振る舞えない。それは昨日、あんな事があったからであろうか。先程見えた瞳はいつも通りに戻っていて、内心ほっとしたのを男は気付かない振りをした。
と、そこでふわりと甘い香りが漂ってきた。
「はい」
「って、何だこれは」
「?チョコレートだけど」
「んな甘いもん飲めるか」
白い陶器に茶色い液体が波打っている。もうもうと半透明の気体を立てながらこちらを凝視してくるそれに、男は心持ち一歩引いた。
そんな男の文句にファイは、
「甘くても美味しいのー。チィが淹れた方が美味しいんだけど、まぁ今日はオレので我慢して」
飲めなかったらもう知らないー、と突き放しながらファイは椅子へ座り直す。
と、そこで男は先程から気になっていた事を訪ねた。
「その、『チィ』はどうした?」
「ん?ああ…風邪ひいたって。だから当分休ませた」
「風邪?」
昨夜見た時は元気そうだったが…、と男は呟いたが。
「別にチィがいなくてもあなたに関係ないでしょー。それよりも早くそれ飲んでよ。冷めたら美味しくなくなっちゃう」
と、半ば強引に話を逸らされた。
それに違和感を覚えつつも、しかし男は突如浮かんできた疑問を口に出してしまった。
「―――お前が盗賊家業に身を窶したのは、何故だ」
「はい?」
唐突な質問に、ファイは裏返った声を出した。
余りの脈絡の無さに自分でも驚いたが、今更引っ込める訳にもいかず男は続ける。
「何故、お前が盗賊なんぞやっている」
この人物が貧しい者に金貨をばらまいて、それで満足するような人間には到底思えない。そんな浅はかな人間ではない。
男はそれが疑問だった。
「吸血鬼…になった事と何か関係があるのか?」
男がそう聞くと、カチャリと静かにカップが置かれた。それが合図だったかのように、途端に場の空気が変わる。
問われた人物は、そこで初めて男に視線を合わせた。真っ直ぐな空色の瞳が男を射抜き、そこには昨夜の面影は見えない。
それを見返しながら、男はどこか遠い所でああ綺麗だと思った。
「そんなに知りたいの?」
そう問いかける声はまるで幼気な少女のようで、
「じゃぁキスしてよ」
まるで邪気の無い言葉は、
「いつもしてるみたいにさ、」
ずぶり、と容赦なく男の心臓を抉る。
「ねぇ」
昨日の夜の事を忘れたわけではないでしょう。それでもあなたは出来るというの?
瞬間、目の前が赤く染まった。そう挑発され、初めの夜とは立場が逆転した事を男は悟る。ぐっ、と握りしめた拳にはまだ昨夜の傷跡がくっきりと残っていて。
―――あなたにオレは救えない。
ガシャンッ!と陶器が揺れる音がした。
それは男が拳でテーブルを叩いたのだと容易に知れ。椅子が倒れるのも構わず、男は乱暴に立ち上がった。
「あんまり俺を見くびるんじゃねぇぞ」
びくりと蒼が揺れ、簡単に剥がれるその仮面に男は皮肉に笑った。
そして記憶に新しいその感情、昨夜感じたその感情が、再び己を襲ってくるのを知覚しながら。
細腕を乱暴に掴み、近くのソファへと押し倒す。見開かれる蒼や抵抗する腕をもろともせずに、一瞬、その紅が泣きそうに歪んだ事など蒼が気付く暇も無く、男は、目の前の赤に噛み付いた。