男の母は数ある愛妾の内の一人であった。
母には皇帝とは別に愛する人がいた。しかし皇帝に見初められた彼女は断ることができず、半ば強制的に城へと連れてこられたのだ。
しとやかでいつまでも少女心を忘れない、そんな母であったが、皇帝が彼女を愛したのは、たった一つの季節を跨いだだけの間だった。
子どもが生まれても、彼女が病床についても、皇帝はただの一度も館に来ることはなかった。
そしてそのまま、哀れな小鳥は鳥籠の中で静かに息を引き取った。
それをたった一人で看取った若き日の男は、悲しさとそれを上回る皇帝への憎しみの中で。
一つ、己に対して誓ったのだ。
† 薔薇が蒼いその理由は 第六話 †
月がこちらを見ている。静かに、ただ静かに。
「お前、は…」
口から出た声は驚きに掠れていた。お前は誰だと。
その金色の瞳、つり上がる目尻、薄く開いた唇から覗く二つの歯。それはまるで御伽話に出てくる、
「ヒトの血を吸うバケモノ」
ハッと男は目を見張る。
金の瞳の持ち主はその反応に面白そうにクツクツと笑った。そして月を背負いながら少しずつ男に近付いて来る。
「信じられない、ってカオしてるね」
「どう、これで満足した?」
「これがオレの、本当の姿」
金色の瞳に男が映る。
先程触れた指、髪。それらはいずれも同じ人物なのに、今は全くの別人に思える。
人形のように美しく、そして冷たいその瞳には何の感情も読み取れない。一つ瞬きをする度に周りを縁取る睫毛がふるりと揺れる。その中心にあるのは紛れもなく月色で。
ぞくり、と男の背が震えた。
そんな男に目の前の人物はああ、と気付いたように告げる。
「こんなオレとセックスしたもんね。噛まれなかったか不安?」
安心してオレは噛んでないからー、と金の吸血鬼は言う。
そして未だ黙ったままの男の唇に白く細い指を這わし、触れるのではないかという距離で囁く。月の瞳は細められ、まぁるく開けられた唇からは血のように真っ赤な舌を覗かせて。
「オレは誰も噛まない主義だから。それは―――三年前に誓ったこと」
月が、美しく微笑んだ。
† † †
カタン。
背後で音がし、チィはそちらへ向いた。
「じゃあ出かけてくるね」
「うん、いってらっしゃい」
その額に一つキスを落とし、騎士姿のファイは窓枠へと足をかける。
「ファイ」
「ん、なぁに?」
「辛そうな顔してる」
「―――」
「帰ってきたら、」
「うん分かった。帰ってきたら…ね」
そう約束をし、ファイは闇へと消えていった。
† † †
ファイは出掛ける際の会話を思い出す。
―――そうだ、チィ。約束したのに。
そして男の口元から素早く身を離し、使用人控え室のドアを開けに行く。
一人取り残された男は、チィ、起きてる?と呼ぶ声をどこか遠くで聞きながら、何故か、昔を思い出していた。
† † †
母親が目の前で苦しんでいるのに、ただ見ていることしか出来なかった、あの日。何度も何度も宮廷へ足を運び、一目で良いから母に会ってくれるよう皇帝に頼んだが、それも叶わなくて。
所詮自分は数ある愛妾の子供だと、そう己の立場を理解した時、少年の中に芽生えたものは、権力に対する憎しみとそして。
守るべき存在への執着。
もう二度と母親のように悲しませる事のないよう、全力で守り抜く事を。自分に近しい者全てに。
まだ幼かった少年にとっては過酷で、それ故に強い、強い誓いだった。だからこそ。
―――あなたにオレは救えない。
その一言が頭から離れない。
館からの帰り道、男は拳をきつく握りしめた。
爪が肉を裂き、ぽたりと血が道に落ちる。その血と同じ色をした両眼に浮かぶのは、紛れもない、悔しさだった。