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馬車はゆっくりと、しかし確実に日本国へ向かっている。
柔らかな椅子に腰掛けビロードのカーテンの隙間から流れる景色を見ながら、頬杖を付きファイは考えていた。
長居はするだけ危険だ。本物のサクラ姫殺人事件の謎を解き明かしたら、すぐにセレス国へと戻るつもりだった。
「本当に大丈夫?ファイ」
「大丈夫だよー、チィ。もしバレそうになったらいつものように逃げればいいんだから」
ファイとサクラの世話焼き係兼、遊び相手として小さい頃から一緒に過ごしてきたチィの頭を愛おしそうに撫でる。この小さくて愛らしいチィという名の少女もまた、ユウコとファイの関係を知る数少ない者の一人だ。
勿論、ファイが『怪盗D・ローザリー』であることも知っている。
「チィ、何か出来ることある?」
「そうだなあ…じゃあ、オレのために毎日美味しいチョコレートを入れてよ」
「それだけでいいの?」
「うん、いいんだよー。チィはそれで」
大事な大事な幼馴染。二人の間で主従関係など遠の昔に消え失せている。
そうだ、サクラがいなくなってしまった今、この子だけでも守らなければ。その笑顔が曇らないように、心が闇に沈まないように。
「―――」
そこまで考えてファイは心の中で自嘲する。
守る、だなんて何を愚かな事を。彼女を一番傷付けているのは他でもない自分なのに。
数ヶ月に一度定期的に行われる行為。ファイはあれ程恐ろしいものを他に知らない。それでもチィは笑っている、側にいてくれる。
そんな彼女に、今までどれだけ救われてきたのか。
「ファイ?」
安心させるように笑う心優しい少女に、ファイは笑みを返す。
そして馬車は、日本国の城門へと入っていった。
† 薔薇が蒼いその理由は 第三話 †
扉を開けると、そこには一人の男がいた。
「よぉ」
「―――っ、」
その予想外の来客に、ファイの顔は一瞬凍った。
しかし次の瞬間には笑みを貼り付ける。ここら辺は慣れたものだ。
「…あら、こんな夜更けにどなたでしょう。婦人の閨房に勝手に入り込むなど」
と、そう皮肉たっぷりにファイは言う。
突然の展開にも臆する事ないファイに、男は虚を付かれたような顔をし、そしてゆっくりと口端を上げた。
「夫が妻に会いに来たんだ。目的は一つしかねぇだろ」
「夫?随分と面白い事をおっしゃるのですわね。私と貴方が夫婦になるのは、明日の式を終えてからのはずではないかしら」
そう、男は黒公爵こと黒鋼であった。
ファイが日本国に入国した際、夫になるはずのこの男は出迎えにも、使いの者すら寄越しては来なかった。なのに今更になって一体何の用だと言うのだろう。
今、実質日本国を支えている黒衣の宰相。そして―――サクラを殺したかもしれない男。
目の前の男は、ファイが今まで出会った男達とは何かが違った。鍛え抜かれた身体が衣服の上からでもよく分かる。そしてその薄闇の中でも苛烈に燃える二つの紅い瞳。それは真っ直ぐにファイを貫いていた。
「そんなもの、別に今日だろうが明日だろうが同じことだろ」
「そのような台詞、日本国宰相の名が聞いて呆れますわね」
男の不遜な態度にも怯む事なく言い返すファイに、男はさも面白いというでも言うように見つめてくる。
まずい、と思った。
「私はただ、セレスと日本の和平の架け橋として嫁いで来たのです。貴方もそのつもりなのでしょう?でしたら明日の式だけ共にして、後は一切関わらなければ良いではないですか。そうでなくとも貴方のような方とは、寝台を共にする気などありませんけど。私はもう休みます。早く出て行ってくださいませ」
と、ファイは早口で続ける。さすがに言い過ぎたかと思ったが、そうでもしないとこの場は乗り越えられそうにも無かった。
しかしどうしたというのだろう、この感覚は。攻めているのはこちらのはずなのに、何故か反対に追い詰められている気がする。
「よくしゃべるな。噂で聞くサクラ姫とは大分印象が違うが」
「それ、は…」
そこで初めてファイは言葉に詰まった。式の前日に男が自分を訪ねてくるなど考えてもいなかったため、ファイにしては珍しく焦っていたようだ。サクラの代わりをしていた時は『サクラ姫』の仮面を外す事など無かったのに。
黙ってしまったファイを、男は静かに見つめる。
「これはもしかすると、本当かもしれねぇな」
「え?」
そう言うと、男は立ち上がる。
そしてそのままファイを通り過ぎ、
「な―――、」
ガチャンッ―――。
扉の鍵を下ろした。
完全に密室となった部屋で、男はファイを見下ろす。そして身構えているファイの前で、ゆったりとした口調で話し始めた。
「今朝、面白いものが届いてな…」
そう言いながら、男は懐から何かを取り出す。それを認めた瞬間、ファイのその目は驚きに見開かれた。
そこには、誰とも分からぬ文字で、
『 花 嫁 は 偽 者 』
そう、書いてあったのだ。
「これは、どういう意味だ?」
男は問いかける。
どういう意味だ、なんて。そんなのはファイが一番知りたかった。
『偽者』―――何故、この事がこんなにも早くばれたのだ?
そこでふと思い当たる。考えるまでもない。この手紙を差し出したのは他でもない、サクラを殺した本人だ。もしくは関係者か。それ以外に、ファイの事を知る人物がいるわけがない。
まさかこんなにも早くあちら側が手を打ってくるとは思わなかった。
「―――どういう意味も何も…私には何の事か分からないのですが」
そう言ってファイは笑う。こんな所で化けの皮を剥がされてはたまらない。嘘や偽りを臆面も無く述べるのは自分の得意分野だ。
それにもし仮にこの男が犯人だった場合、男は全てを知った上でファイの反応を楽しんでいる事になる。それに乗る訳にはいかなかった。
「このような子供騙し、宰相ともあろう方がお信じになられるとは思えませんけど?」
「子供騙し、か…。成る程、確かにそうだな」
ファイの言葉に、男はその手紙をひらりと回し再び文面を読んだ。
その瞳からは、ファイを本物の王女と信じているのか偽者と信じているのかは読み取れない。
「そうですわ。こんな物は真っ赤な偽りで、」
たった一行の手紙だとしても、サクラ暗殺に関して何か手がかりがあるかもしれないと、ファイはその手紙へ手を伸ばす。
その瞬間。
「―――――ッッ!!?」
ぐらり、と世界が揺れた。視界に入る手紙と自分の手が二重に見え、その突然の出来事にファイは混乱した。
この感覚は、何だ?
微かに覚えがあった。数年前に…いや、生まれた時に自分も持っていて、しかし今は封印されているもの―――魔力。
よほどの術師なのだろう、仕掛けた痕跡が感じられない。しかもこの術は明らかに敵意が混じっている。こんな気分が悪くなるような魔力など、ファイは今まで感じた事など無かった。
「おい、どうした」
消え入りそうになる意識の奥で、男がそう問いかけるのが分かった。
そうだ、今ここで気を失う訳にはいかない。手紙も術も気になるが、それよりも今はこの場をどうかにして乗り越えなければ。
「顔色が悪いぞ。まさか、本当に、」
「ですから……違うと先程から申し上げているはずです」
「ほう」
青白い顔をして、それでも睨んでくるファイに男は感心したように見つめてくる。
そして手にしていた手紙を床へはらりと落とすと、
「だったら…」
ガサリ、とその手紙を踏みつけ、素早い動作でファイの腰を引き寄せた。
未だ術の支配に飲み込まれているファイは、それを回避する事が出来なくて、
「だったら―――証拠を見せてもらおうか」
「―――ぁっ!」
そう言うと同時に、乱暴に寝台へと押し付けられた。
上から体で押さえつけられ、伸びてくる腕を払おうと手を出すと逆に捕らえられる。ファイは焦った。
「やっ、…おやめ、ください!宰相ともあろうお方が、恥ずかしくはないのですか!?」
恥ずかしくはないのだろう、それはたった数言しか会話をしていないファイにもすぐに分かる事だった。
要はどうでもいいのだ。宰相というそんな上辺だけの地位など、今のこの状況下では何の意味も成さない事をこの男はよく知っているのだ。
殺されて良かったとは決して思わないが、サクラがこんな男の元へ嫁ぐはずだったのだと想像すると怒りが込み上げて来る。
「証拠を見せろ。お前が本物のセレスの姫だという、証拠をだ」
「証拠…って、や!」
胸元を掴まれ、ファイはその顔を更に青くする。
次に男がやろうとしている事に気付き、慌てて身を捩じらせた。しかし。
「抵抗すればする程、怪しまれるだけだぞ」
「―――ッ!」
そう言われ、その動きを止める。
そして悟った。男は試しているのだ。ファイの本物の王女としての覚悟を。付け焼き刃の偽者であるならばここで尻尾を出すであろうと、そう高を括って。
そう、偽者ならば―――。
最愛の妹を思い出す。たかが一国の王女というだけで殺された彼女。そして目の前には、もしかしたらその妹を手にかけたかもしれない男がいる。
「―――」
ファイは男の体を押しのけ立ち上がる。それを拒絶の意として受け取ったのか、後ろで皮肉に笑う声が聞こえた。
信じられなかった。自分が次に起こそうとしている行動を、ファイはどこか遠い所で知覚する。
自分の姿を見たらこの男はどう思うだろう。どんな反応を示すのだろう。男の目的は分かってはいたが、それでも自分を抱こうとするのだろうか。
それを想像し、皮肉に口元を歪める。ならば飛び込んでやろうではないか。得体の知れない術師にもこの男にも。
全ては、サクラのために。
「――――――ッッ!!」
そしてファイは、勢いよくドレスを引き裂いた。
コルセット一枚の姿になり、抜け殻であるそれを男へ投げつける。次に頭に被ったドレスを引き下ろした男と目が合い、その時、既にファイは生まれたままの姿になっていた。
優雅に、美しくファイは笑う。
「どうしたのです?貴方のお望み通りに致しましたけれど」
「お前、は…」
さすがの男も目の前の光景に驚いているようだった。だってそうだろう、どこの世界に花嫁が男だと予想していた花婿がいるだろうか。
しかも自ら男である事をばらしたのだ。ここまで開き直れば、逆に偽者だと怪しまれる可能性は低くなる。それがファイの狙いだった。
「成る程―――良く、分かった」
男の腕が伸びてくるその一瞬、嫌悪感に体が震えたけれど無理矢理押し留めた。
そして再び寝台へ寝かされる。その様がまるで愛する人へするように優しくて、それとは程遠い場所にある自分達の心と比べ、ファイはおかしくなって、少し、笑った。