いつまでもいつまでも繰り返していた。
そして走って走って、やっと夜の街を抜けた頃には空が。
膝を付く。堅い道の感触はどうしてもあの夜を思い出させて。はらはらと零れ落ちるそれは止まりそうもない。
少年は―――幼き日のファイは。
枯れ果てるまで、泣いた。
空が、月が、太陽に完全に追われるまでずっと。
『怪盗D・ローザリー』の、誕生だった。
† 薔薇が蒼いその理由は 第十一話 †
呆然としているファイを無視し、それでも星史郎は続ける。
彼の操る言葉は容赦無くファイの心に傷を付けていくのだ。ざっくりと。
「貴方のその防護魔法はとても強力でね。僕もまさか、こんな強大な魔力の持ち主と出会えるなんて思ってもいませんでしたから」
金の髪の少年に襲いかかった時、視界が一瞬白くなり体が弾かれた。その初めての感覚に傷つけられたのだと遅れて気付く。
つ、と頬に血が流れ落ち、それに驚き横たわっている少年を見つめた。目を凝らすと見えてきたものは、
「本当に驚きました。あんな高度な魔法は見たことが無くて。ただでさえ強大な魔力を封印し、その上に更に防護魔法を施す―――並大抵の魔術師では到底出来ない事です」
危険だと思った。この少年をこのまま野放しにしておく事は非常に危険だと。自分の目的遂行のためにはここで。
ココデコロサナクテハ―――。
「ここで殺しておかなくてはと、そう思いました」
そして再び刃を向けた。しかし、
「やはりそれは無理でした。僕の力では、貴方の記憶を消すことで精一杯で」
なんとも情けない話です、と星史郎は芝居がかった口調で言う。
「貴方を噛んでしまったのは―――攻撃する際につい、ね。僕も貴方と同じ様に普段は噛まないよう気を配ってはいるのですが…」
いつもはちゃんと別の物で吸い取ってから飲んでいるのですよと、そう言いながら星史郎は懐から何かを取り出す。それは一本の小さな注射器だった。
被害者の腕にあったという小さな傷。それはこの注射針だったのか。けれどファイのそうではなかった。小さい事に変わりは無いが、そこには確かに人の歯のような鋭利なもので傷つけられた痕があった。
「僕だって鬼じゃない。これ以上吸血鬼を増やすなんて事はしたくはない。けれど、」
あの時はそんな事さえ忘れていた。だから思わず噛んでしまったと。
ほんの少しだけ表情を変えて、星史郎はそう言った。
† † †
カタリ、と窓を開ける。
終わった後はいつもこうだ。その事がどれだけ彼を苦しめているのか良く分かっていたけれど。
そんな自分を気遣かってか、行為の後数日、いつも彼は暇を言い渡す。お願いだから休んでと、あんな今にも泣き出しそうに言われてしまえば、大丈夫平気だなんて言える訳が無い。
夜の空気を思い切り吸う。言葉に甘え、十分に休養を取った身体はもう元に戻っていた。
『あの子の元へ行きなさい』
そうあの人に言われた時は、何故だか分からなかったけれど。
将軍の家へ行き、主兼幼なじみの姿を見た時。ああ危険だと、彼らのように魔力など無い自分でもそれは見てとれて。
笑っていて、と彼は言う。それが救いとなるならば、自分はいくらでも笑っていようと思う。悲しくて笑うしかない彼のために、心からの笑顔をプレゼントして。
そしていつまでも側にいよう。彼のために、そして自分のために。
―――あのひとがしあわせになりますように。
夜空に浮かぶ星達に強く、強く祈った。
† † †
「それで…オレに何の用でしょう?」
ふわりと柔らかな金の髪を揺らし、ファイは問いかける。
急に口調が変わったファイに、驚くそぶりも見せずに星史郎はその瞳を見つめ返した。にこやかに口元は弧を描いているけれど、双方の蒼は確実に笑っていない。それは相手も同じであった。
感情を灯さない笑顔がぶつかり合う。
「用というか…貴方には、これから起こる余興に付き合っていただこうかと思いまして」
「余興?」
「そうです。きっともうすぐ貴方の夫がここへ来る。その時に貴方はいい取引材料になる」
人質としてねと、そう内容とは裏腹に柔和に告げる。
『人質』―――その言葉に反応したファイは、すぐさまそれを否定した。
「あの人がオレを助けに来ると?」
「ええ、思っていますよ」
「冗談でしょー。黒鋼公がそんな事をするはずが、」
「『あなたを愛しているから』」
「ッ、」
一瞬にしてその毅然とした蒼い瞳が揺れ動く。それを確認した星史郎は、クスリと面白そうに口端を上げる。
そしてゆっくりとファイへ歩み寄っていった。
「親友の僕でさえ未だに信じられないのですよ。黒鋼が、誰かを本気で愛するなど」
そしてファイへと近寄りその頬を撫でた。くるりと耳を一つなぞり、そこに唇を寄せる。
そう、それはまるで愛の言葉のように。
「彼は貴方を愛しているんです」
嘘だ嘘だとファイは思う。
自分たちの関係は一時だけのものだと。サクラ暗殺の秘密を暴く、その間だけのいわば契約夫婦だ。こんな男で、しかも怪盗で吸血鬼な自分を、あの男がまさか。
―――言ったろ、俺達は夫婦だと。
あの紅い瞳が。男の自分に何の冗談かと思う程、優しい言葉を囁くあの唇が。あの大きな手が。指が。息が詰まる程に抱き締めてくる腕が全て。全、て―――。
ぐ、と星史郎を押しのける。喉が詰まったように上手く声が出ない。どくどくと心臓は早鐘を打ち、それでも何か言わなくてはいけなくて。
震える瞼を叱咤し、ファイはなんとか口を開く。
「…あなたの本当の目的はなんです?」
問われた男は一瞬、ほんの一瞬だけだがその笑みを消し、ゆうるりとした動作で眼鏡の位置を直す振りをする。
「…人を、探しているのですよ」
「人?」
「僕はずっとその人を求めている。そうして旅をしている」
長い時を越えて、永遠かと思われる時間の中で。
どこか遠い目をしてそう言う星史郎は、次には笑顔を浮かべていた。
「ま、そんな事今はいいでしょう」
そして、やはりそうはぐらかした。
すると突然、ドンドンドン!と激しく扉を叩く音がした。
「ほう…案外早かったですね」
「え?」
その音に何か気付いたのか、そう小さく呟き、星史郎は立ち上がる。そして事態を飲み込めていないファイを振り返って一言。
「王子様がお姫様を助けに来たようです。―――さあ、どうしましょうかね?」