* リーマン×女子高生 ―センチメンタルなお年頃― *




しゅん、と銀の鉄板から湯気が出る。
それを確認し、ファイは台の上に広げたシャツへと押し込めた。ぐ、と少し力を込め、しかしそれでも優しく丁寧に動かしていく。
時計は既に12時を指していた。明日の朝、早く起きなければならない男は既に寝室だ。
一緒に暮らすようになって、早くも1ヶ月が過ぎようとしていた。正確にはファイが男のマンションへと引っ越して来てから、だが。
高校を卒業し、大学へと進んだファイは1人暮らしをしようと決めていた。学費は奨学金でなんとかなる。後はアルバイトでもなんでもすれば生活していけると、そう思っていたのだ。これ以上、あの家に世話になるわけにはいかなかった。
しかしその事をうち明けた時男が言った台詞は、今思い出しても笑みが零れるものだった。

「ん、これでよしー」

シャツの肩部分を持ち上げる。一つの皺も無く綺麗に伸ばされたそれを見、ファイは満足そうに笑った。
寝ているであろう男を起こさないように、そっとドアを開ける。大きめのベッドが視界に入り、そこには静かに目を閉じている男がいた。それを認め、ファイは起こさなかった事にほっと息をつく。
そして足音を忍ばして部屋へと入った。薄暗いその中で、豆電球の明かりだけを頼りに、隅に掛けてあるハンガーへと手を伸ばす。
そこには1本、ネクタイが掛かっていた。緑と白のストライプのそれには、以前ファイが贈ったネクタイピンが付けられていた。銀のシンプルな台に、ファイの瞳のような蒼い石が埋め込まれている。

(つけて、くれてるんだー…)

だなんて。
その事にちょっと感動しつつ、ファイはハンガーをシャツに通し、再び掛け直した。
幸せだ。素直にそう思える。男と出会ってから初めて知った様々な感情。うれしい。かなしい。すき。そして、しあわせ。
世界が途端に色付いたようだった。今までモノクロでしかなかった世界に命が吹き込まれ、道端に咲いている花でさえ生き生きとしているように見えてくる。
キラキラと、全てが光っていた。

(ぁ…なんか、)

じわりと視界が揺らぐ。
この1ヶ月の間、度々こういう事はあった。特に何もないのに急に胸が苦しくなり、切なくなる。
これが一体何なのかなんて、きっと男の人には理解出来ないだろう。
そっとシャツへ頬を寄せる。ふわりと漂ってきた香りは男のものではなかったが、それでもその洗剤の良い香りを感じ、ファイは口元に笑みを刻んだ。その時。

「何やってんだ」

ふわり、と急に体が包まれた。
男の逞しい両腕で後ろから抱き締められたのだと、気付いたのは一瞬後。勿論、ファイは驚いた。
ごめん起こしちゃった?とそう言うファイに、男は抱き締める力を強め、それを否定した。

「で、何やってんだ?」
「何って、シャツにアイロンを…」
「俺がいるのに、お前はこんなモンに欲情すんのかよ」
―――は、はぁ!?」

歯に衣を着せぬ物言いに、ファイは顔を真っ赤にする。
きつく抱き締められているため身動きがとれない。せめてもの反撃にと、男の腕を抓った。
いて、と男が小さく唸る。

「てっめ、」
「黒ぷーが変なコト言うからでしょー?」

オレのせいじゃないもーんとそう言うファイに、男は一つ抱き締める力を強め、

「じゃあ何で泣いてんだよ」

つと、その太く長い指でファイの目元を触る。そこは確かに濡れていて、ほんの少しだけだったが、じわりと指先が湿った。
何で分かったのかとファイは驚く。だって、男に背を向けていたはずなのに。絶対自分の顔など見られるはずはないのに。
口には出さなかったけれど、伝わってしまったようだった。男はファイの肩に顎をかけ、耳元で囁くように、

「泣きたくなったら俺を呼べっつったろが」

そう、優しく言った。それを聞き、ファイは思わず目を閉じる。
ああもう、そんな事を言われたらますます涙が止まらないではないか。全くこの男は鈍い。普段はエスパーか何かと思う程に自分の心情を見破るくせに、こういう時だけは。

「…理由なんて、言えるわけないじゃん……」


―――幸せすぎて、涙が出るなんて。


ポツリと小さな声で言う。
聞き取れなかったのだろう、男が何だと問うてきたけれど無視をした。そして男の腕の中から逃れ、ぼすりとベッドへうつ伏せに倒れ込む。

「オレも寝るー」
「…ったく。言うつもりはないかよ」
「オレにだって言いたくない事の一つや二つあるんですー」

黒りんなんかには教えられませーん、と少し冗談めかして言うと、背後で男の雰囲気がガラリと変わるのを感じた。と同時に、本能が身の危険を知らせる。
逃げる間もなく男の体が伸し掛かって来た。そして胸元へ手を入れられ、パジャマのボタンを一つ二つと外されていく。

「ちょっ…と、」
「言わねぇんなら、言わせてやる」
「うわー黒りん野蛮人!てか明日早いんでしょー!?」
「んな事どうでもいいんだよ」
「どうでもいいって―――やっ!」

今まで寝ていたからだろうか、やけに熱を持った男の手に肌を撫でられ、思わず声が上がった。
力では到底叶うはずも無い。悔しい、と素直に思った。これも男と出会って初めて覚えた感情である。
そしてその感情のままに、せめてもの抵抗とファイは口を開く。その内容は、

「『俺ん家に来ればいい』」
「っ…!」

途端、男は動きを止める。
それにふと笑い、体を反転して下から見上げると、そこには驚きに固まっている男がいた。それを認め、ファイは更に続ける。

「『今から部屋探すのなんて面倒くせーだろ。俺んトコ来いよ』」
「〜〜〜てっめぇ!!」

それは、男がファイにかつて言った言葉だった。1人暮らしをすると宣言したファイに言った、すなわち同棲のお誘い文句。
こんな時にそんな過去の恥ずかしい台詞を、しかも自分が言った相手に言われるだなんて思ってもいなかった男は、羞恥に目元を染める。ファイはそんな男の反応に、さも面白いとばかりに笑い転げた。
幸せだ。本当に素直にそう思える。好きな人のシャツをアイロンし、そして腕に抱かれて眠りにつく。これの繰り返し。毎日毎日、これからもずっと。
笑いを止め、男を見つめた。急に静かになったファイに、男も何事かと見つめ返す。手を伸ばし、浅黒い頬へと触れそして、

「好き」

そう、囁いた。


―――すきだよ、だれよりも。じぶんなんかよりもずっと。


そう言いたかったのだけれども、その先は言葉にはならなかった。
目を閉じると、それが合図かのように男の唇が降ってくる。
それを受け止め、ファイは静かに身を委ねた。